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「新しい道徳」は進んだのか

2017年01月30日 | 読書
2017読了9
『新しい道徳』(藤原和博 ちくまプリマ―新書)

 およそ10年前の発刊。著者が和田中学校の民間人校長として脚光を浴びていた時期の著書である。『新しい道徳』という書名で思い浮かぶのは、一昨年に北野武が書いたベストセラー。それに学校で使われる副読本にも、そういうタイトルを冠したものがあったはずである。そう思い起こすと、いったい何が「新しい」かだ。


 道徳とはある一定の社会の中で通用するものだから、地域や時代、状況によって違いがある。従って詭弁を弄するようであるが、道徳は常に新しいのが当たり前である。それは一刻一刻時が過ぎるからであり、その更新速度の違い、濃淡に差はあるといえ、人々の道徳観は変わり続ける。どこで区切るかなのである。



 道徳の教科化が決定し、動き出している。この著が発刊されてからの10年をそこまでの過程と考え、語られていることに沿って注目してみる。大きな観点として「正解」から「納得解」、言い換えれば「一般解」から「特殊解」といったことがあるのは確かである。それは時代の流れとも言える。道徳に反映されたのか。


 著者は「新しい道徳」の中心として「コミュニティに生きる人々の『美意識』」を挙げ、日本には根付かない宗教の替わりに「学校を核にして地域社会を再生していく」ことを強調する。自らが積極的に働きかけ進めてきた芯でもあろう。そして、この書の締め括りを、こんな一文にするのである。

 日本では、もし「教会」の替わりが務まる組織があるとすれば、それは「学校」しかないからだ。

 かなり強烈なこの「提案」が、ここ10年間でこの国で進んだことと照らし合わせてみると、その結果(途中経過)も明らかになるのではないか。


 ハードとして顕著なのは、学校の統廃合が進んだことだ。これを「組織」の減少とみるか、再編とみるか。培われる「美意識」のためにプラスとなりえるか。プラスにするための努力が意識されているか…政治の問題である。「組織」の中で働く者たちには状況変化の自覚はあっても、手立て更新のハードルは高い。


 ソフトは種々だが、教員免許の更新制スタートも大きい。研修そのものの意義は疑わないが、このような一律な方法が「納得解」と呼べるか、根本的に疑問を持つ。目指すところと真逆の手法で進むのが、我が国の倣いか。そういえば、担当省庁の「天下り」問題の持つ価値観を、新しいと呼べないことは明らかである。