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「泣く」にもレベルがある

2017年03月21日 | 雑記帳
 絵本作家内田麟太郎氏のお話を聴いた。私にとっては『泣きすぎてはいけない』が印象的な絵本だ。ある研修会で秋田市の谷京子さんを講師に迎えたときに紹介していただいた一冊だ。その後、勤務校でBGMつきで低学年に向け読み聞かせをした。孫を思う祖父の心情がひしと迫ってきて涙ぐんだことを覚えている。


 内田氏が会の冒頭で、自ら作品を朗読された。それは『ぼくたちはなく』という題の作品だった。その後に語られた継母との確執や、悪夢に嗚咽する話などを聴くにつれ、どうもこの「泣く」ということが、この作家のキーワードではないかと感じた。「泣く」とはどういうことか。単に「涙を流す」ことだけではない。



 広辞苑の第一義は「精神的・肉体的の刺激に堪えず、声を出して涙をながす」。教師や人の親であれば、こんなことを語った記憶がある人は多いと思う。「赤ちゃんとは違うのだから、泣いてばかりいてはわからないよ」。そう考えてみれば、赤ん坊に限らず「泣く」ことはある意味で重要な伝達手段と言えるかもしれない。


 大人でも言葉にできないから泣くことはある。感情が理性を制御できない状態だろう。従って、逆に泣くという行為の正直さは捨てがたいし、論理ばかりに毒された心身にいい面もあるように思う。しかしまた「泣く」ことに振りまわされる心には「筋力」がつかないイメージがある。「泣く」にもレベルがあるようだ。


 フーテンの寅さんの言い草ではないが「顔で笑って心で泣いて」ということが、大人の一つの条件なのか。どのような状況であれ「声を出して涙を流す」泣く体験は、多くの人間を鎮めたり、次に向かわせたりするきっかけをつくるためにある。ただし「声」や「涙」に自分の心が引きずられないことも、学ばねばならない。