Volume43
「たとえば、日本語をしゃべるぼくと、アメリカ語をしゃべるジョージが、おたがいにコミュニケーションしようと思ったら、英語で話すにしても、日本語で話すにしても、ちょっと程度の低いところで、コミュニケーションが完成するのだと思う。」
ひと月ぐらい前に、『ほぼ日』で糸井重里が書いた文章が、ずっと心に残っている。
「ちょっと低いところで落ち合おう」と題されたそのコラムは、今の私達がおかれている現状に対する身の処し方を、のんびり風に見せながら、鋭く提起している。
世代間の違い、仕事の違い、育った環境の違い…様々な違いを持つ人間同士が、否応なく混じり合う世の中になってきている。
しかし、齢をとるほど変化を嫌うのは世の常であり、自分自身もそうした感覚が強くなっていることは否めない。
そして、自分の矜持なりモットーなりを崩さず暮らすことは、それなりに価値が高いと考えている。
そういうふうに見える人に魅力を感じたりする。
その「高さ」は貴重なものであるにしろ、そればかりに固執していては、きっといつか見渡せば、か細く頼りないまま風に晒されていたということになるのではないか。
「ちょっと低いところ」を馬鹿にしてはいけない。
その低いところで明日につながる土壌ができていくことを意識したい。
「たとえば、日本語をしゃべるぼくと、アメリカ語をしゃべるジョージが、おたがいにコミュニケーションしようと思ったら、英語で話すにしても、日本語で話すにしても、ちょっと程度の低いところで、コミュニケーションが完成するのだと思う。」
ひと月ぐらい前に、『ほぼ日』で糸井重里が書いた文章が、ずっと心に残っている。
「ちょっと低いところで落ち合おう」と題されたそのコラムは、今の私達がおかれている現状に対する身の処し方を、のんびり風に見せながら、鋭く提起している。
世代間の違い、仕事の違い、育った環境の違い…様々な違いを持つ人間同士が、否応なく混じり合う世の中になってきている。
しかし、齢をとるほど変化を嫌うのは世の常であり、自分自身もそうした感覚が強くなっていることは否めない。
そして、自分の矜持なりモットーなりを崩さず暮らすことは、それなりに価値が高いと考えている。
そういうふうに見える人に魅力を感じたりする。
その「高さ」は貴重なものであるにしろ、そればかりに固執していては、きっといつか見渡せば、か細く頼りないまま風に晒されていたということになるのではないか。
「ちょっと低いところ」を馬鹿にしてはいけない。
その低いところで明日につながる土壌ができていくことを意識したい。