すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

想像力の遣いかた

2018年04月01日 | 読書
 もう十数年前の文章であり、著者自ら「決して汎用性の高い知見を語っていると思われない」と記してもある。しかし私にとっては、人生という道で一服するために茶屋に立ち寄り、そこで爺様の語るウンチクに耳を傾けているようで心地よい。疲れを少し癒しつつ、よしっとまた足を運ぶための気付け薬でもある。

2018読了34
 『待場の現代思想』(内田 樹  文春文庫)


P173
 目的地にたどりつくまでの道順を繰り返し想像し、その道を当たり前のように歩んでいく自分の姿をはっきりと想像できる人間は、かなり高い確率でその目的地にたどりつくことができる。「夢を実現する」というのは、そういうことなのである。

 これは大きな将来設計にも言えるだろうし、日常の仕事などについても当てはまるだろう。「絶対合格」といった貼り紙の有効性の「存在」は、消えてなくなることはない。だからこそ、自分や他に示す言葉は大事にしたい。

 さて、上で使われた「想像」はイメージするという一般的なレベルだが、この著の中のハイライトともいえる「想像力と倫理について」の章は、ずいぶんと考えさせられることが多い。

P216
 想像力というのは、「現実には見たことも聞いたこともないもの」を思い描く力である。(略)想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。

 著者は「人の身になって考える」という言葉を信用しない。
 かつて(今も?)、学校教育では「子どもの立場に立って」のような常套句が使われたが、個人的にはひどく懐疑的であった。所詮、無理なことをその美しい言葉に載せようという甘さを感じたからだ。
 その詳しくはひとまず置いて、ウチダ先生はこんなふうに書く。

P214
 私たちが、ほんとうに想像力を使うことが必要なのは、「共感できる人間」についてではなく、「共感できない人間」についてではないか。

 本当に大事な教えだと思う。
 自省すれば、「共感」はよく使い、他にも求めてきた。しかしそれはきっと「共生」のための必要条件でも十分条件でもない。
 むしろ、共感できなくても共生できる力が求められている。

 そのために、知らなければならない事柄、身につけたいスキルはたくさんある。
 まず、目的を見失わないようにしたい。


 ここで、また寄り道。

 一昨日の人口将来予想は、ある程度予想していたとはいえ…。どう受け止めたのだろうか。もうすでに、目をつぶった人はいないか。
 ウチダ先生は、半月前のブログにこんなことを書いていた。
 http://blog.tatsuru.com/2018/03/16_0950.php

 「こんなことを続けていたら、いずれ大変になる」ことに目を逸らさない。