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その「正義」を鏡に映して

2018年04月30日 | 読書
2018読了48
 『その「正義」があぶない。』(小田嶋隆 日経BP社)



 最近、著者のネットコラム「ア・ピース・オブ・警句」を興味深く見る。その反応には結構批判も多い。個人的には納得することが多いのだが、書きぶりが個性的なこともあってか、反感を覚える人もいるのではないか。これはそのコラムを収録したもので、2010年夏から翌年の秋まで、つまり大震災を挟んだ時期だ。


 今から7,8年前の文章だ。「〇〇と正義」と章分けされ、題は「原発」「サッカー」「メディア」「相撲」「日本人」「政治」が並ぶ。もちろん中味は、当時の様相を拾い出して論評しているのだが、なんだか今とあんまり変わっていない気がした。これらのカテゴリーに対する「正義」という切り口の構造が変わらないからか。


 ザックがハリルホジッチになり、朝青龍が白鵬になり、草彅剛が山口達也になったりしている。しかし「正義」を軸にすると、やはり似たり寄ったりの問題である。この書名に見えるのは、端的には「正義の行使には十分気をつけたい」ことだと思う。美しい言葉への疑い、何気ない言葉に隠された嘘…ありがちな事だ。


 著者のイメージにはオタクっぽい要素を感じる。同世代なので世相のとらえ方に共感を覚えつつ、鋭い論評を繰り出す教養の広さに感心する。その批評に物申す人たちが多いこと自体、正面からの斬り込みが多いからだ。同時に、そういう論壇も自分自身をも良く見据えている。一見無駄と思える、欠かせない視点だ。

 「日本人は駄目だという日本人の駄目さ、というメタ駄目さ議論の駄目駄目さ加減」


 これは著者が「」の存在を意識しているからだ。「世間には、デカい鏡が置かれている」という一文に込められているものは大きい。どこにそれを見つけるか。かつてよく話題にされた「品格」について、こう結んである。これほど腑に落ちる文章も久しぶりだ。文中の「語っている私」も、まさしく私だと自覚する。

 「品格は、本来、語るものではない。評価するものでもない。ただそれは人が去った後に香気のように漂うものだ。いずれにせよ、品格について語る者は品格を失う。いま語っている私も含めて。」