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知的なあまのじゃくへ

2018年04月27日 | 読書
 他から面と向かって「あまのじゃく」と言われたことはないような気がする。しかし周りが自分をどう見ているか察したときに、そんな雰囲気もあったなあ。この齢だから、ひねくれた心の育成過程はほぼ想像できる。そんな自分を認めて?諦めて?いるわけで…。徹しきれなかった揚げ句にこんな本ばかり選んでいる。

2018読了47
 『「あまのじゃく」に考える』(平川克美  三笠書房)



 「はじめに」の題を著者はこう書く。「ひねくれ者でも、嫌われ者でもない、“知的なあまのじゃく”へ」いい言葉だあ。目指す姿だと素直に(笑)思った。同調圧力の強い社会を生き抜く(いや「生きながらえる」程度か)ためには、知的レベルを上げなくてはならない。そもそも「あまのじゃく」には「なぜ」が多いから。


 「なぜ」と問いを立て、考えを進めていく場合の大事な勘所を教えてくれる。例えば「何でも、二者択一にしない」「『こうすれば、ああなる』思考から離れる」「目的志向でない思考法」…こう書くと自己啓発本のようだが、それとは対極だ。なぜなら著者は「ぼくが書いていることもあやうい」と宣言しているから。


 そう明言できることこそ「知的」なのだと思う。今書いている文章の位置づけを見失ってない。表現が為されるまでの過程が詰まっていて、俯瞰的視点がある。著者はかつてコンサルタントをしていて、『反戦略的ビジネスのすすめ』という本を書き、根元的な問い直しをしていたら、その仕事が来なくなったと言う。


 つまり、ビジネスの現場でばりばりやっていた人が、「自分で考える」ことを実感することによって、常に答えを「はやく」「間違えないように」求める世界から脱却を図ったのである。例えば、よくある「マトリクス」「分類法」などを使って思考を進めていくことでなく、「自分がマップを描けるかどうか」を問題にする。


 思わず唸ったのは、内田樹氏の語った言葉として示された「強い現実」「弱い現実」。人生における様々な分岐点は誰にもあるが、もしあの時別の道に進んでいたとしても、今も変わらなかったと言える「現実」は何か。そういう軸足になるべき「強い現実」はあるのか。考えた…おそらく、此処で暮らしていたはずだ。