Volume100
「桃子さんの故郷では吐(は)き出すと言わない。吐(ほ)き出すと言う。「は」では弱い気がする。『ほ』には意志と力感がこもっているではないか。」
先日読了した『おらおらでひとりでいぐも』(若竹千佐子)の中の一節。
夫を亡くし一人暮らしとなった主人公の桃子が、ある日ラジオから流れたジャズに合わせて、気が狂ったように踊りだす。真新しい仏壇の前で服を脱ぎ捨て真っ裸になるまで踊り狂う。そして、悲しみを「吐(ほ)き出した」。
この文章を見て、久しく使っていなかったなあと思った。
「はき出す」という場がなかったわけではないが、それを「ほき出す」(正確には、ホギダス)と言っていたのはいつ頃までだったろう。
ところで、この言い方は当然『秋田のことば』にも載っていて、秋田や岩手の方言ということだろうが、実は普通の国語辞典にも見出しとしてあった。
手持ちの電子辞書では三種類の辞典にある。
いずれも【「はきだす」の変化したもの、転】とされている。
東北に限ったことではないようだ。
とすれば「ほく」はあるのかな、と追究モードになった。
「ほく」と検索すると「北」「発句」「祝・寿」「惚・呆」などが出てくる。これらは漢字を見ただけで、すぐ意味が連想できる。
しかし、一つだけ広辞苑に「ほく」というひらがな表記があった。
この意味は次のように書かれている。
【物の地に落ちた時の音】
もしかしたら、これかもしれない。
例えば、スイカの種を「ほき出す」ときには、なんとなくそんな感じもするではないか。
音のイメージが、その勢い(意志や力感)につながっているのかな。
などと勝手な解釈をしてみた。
悩み事などがありそれを解消しようとするとき、中途半端に「はき出す」のではなく、「ホギダス」くらい強い方が効力があるだろう。
受け止めてくれる対象が、モノや地面であれ、人物であれ、それらがたじろぐ様な強いパワーで出してこそ、何かが生まれる。
ホギダス力を取り戻さねば(笑)。
「桃子さんの故郷では吐(は)き出すと言わない。吐(ほ)き出すと言う。「は」では弱い気がする。『ほ』には意志と力感がこもっているではないか。」
先日読了した『おらおらでひとりでいぐも』(若竹千佐子)の中の一節。
夫を亡くし一人暮らしとなった主人公の桃子が、ある日ラジオから流れたジャズに合わせて、気が狂ったように踊りだす。真新しい仏壇の前で服を脱ぎ捨て真っ裸になるまで踊り狂う。そして、悲しみを「吐(ほ)き出した」。
この文章を見て、久しく使っていなかったなあと思った。
「はき出す」という場がなかったわけではないが、それを「ほき出す」(正確には、ホギダス)と言っていたのはいつ頃までだったろう。
ところで、この言い方は当然『秋田のことば』にも載っていて、秋田や岩手の方言ということだろうが、実は普通の国語辞典にも見出しとしてあった。
手持ちの電子辞書では三種類の辞典にある。
いずれも【「はきだす」の変化したもの、転】とされている。
東北に限ったことではないようだ。
とすれば「ほく」はあるのかな、と追究モードになった。
「ほく」と検索すると「北」「発句」「祝・寿」「惚・呆」などが出てくる。これらは漢字を見ただけで、すぐ意味が連想できる。
しかし、一つだけ広辞苑に「ほく」というひらがな表記があった。
この意味は次のように書かれている。
【物の地に落ちた時の音】
もしかしたら、これかもしれない。
例えば、スイカの種を「ほき出す」ときには、なんとなくそんな感じもするではないか。
音のイメージが、その勢い(意志や力感)につながっているのかな。
などと勝手な解釈をしてみた。
悩み事などがありそれを解消しようとするとき、中途半端に「はき出す」のではなく、「ホギダス」くらい強い方が効力があるだろう。
受け止めてくれる対象が、モノや地面であれ、人物であれ、それらがたじろぐ様な強いパワーで出してこそ、何かが生まれる。
ホギダス力を取り戻さねば(笑)。