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ホギダス力を取り戻せ

2018年04月16日 | 読書
Volume100
 「桃子さんの故郷では吐(は)き出すと言わない。吐(ほ)き出すと言う。「は」では弱い気がする。『ほ』には意志と力感がこもっているではないか。」


 先日読了した『おらおらでひとりでいぐも』(若竹千佐子)の中の一節。
 夫を亡くし一人暮らしとなった主人公の桃子が、ある日ラジオから流れたジャズに合わせて、気が狂ったように踊りだす。真新しい仏壇の前で服を脱ぎ捨て真っ裸になるまで踊り狂う。そして、悲しみを「吐(ほ)き出した」。


 この文章を見て、久しく使っていなかったなあと思った。
 「はき出す」という場がなかったわけではないが、それを「ほき出す」(正確には、ホギダス)と言っていたのはいつ頃までだったろう。

 ところで、この言い方は当然『秋田のことば』にも載っていて、秋田や岩手の方言ということだろうが、実は普通の国語辞典にも見出しとしてあった。
 手持ちの電子辞書では三種類の辞典にある。
 いずれも【「はきだす」の変化したもの、転】とされている。
 東北に限ったことではないようだ。

 とすれば「ほく」はあるのかな、と追究モードになった。
 「ほく」と検索すると「北」「発句」「祝・寿」「惚・呆」などが出てくる。これらは漢字を見ただけで、すぐ意味が連想できる。

 しかし、一つだけ広辞苑に「ほく」というひらがな表記があった。
 この意味は次のように書かれている。

 【物の地に落ちた時の音

 もしかしたら、これかもしれない。
 例えば、スイカの種を「ほき出す」ときには、なんとなくそんな感じもするではないか。
 音のイメージが、その勢い(意志や力感)につながっているのかな。

 などと勝手な解釈をしてみた。
 悩み事などがありそれを解消しようとするとき、中途半端に「はき出す」のではなく、「ホギダス」くらい強い方が効力があるだろう。

 受け止めてくれる対象が、モノや地面であれ、人物であれ、それらがたじろぐ様な強いパワーで出してこそ、何かが生まれる。

 ホギダス力を取り戻さねば(笑)。