すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

街は、大怪盗なのだ

2018年04月07日 | 読書
 この短編集は、文庫化される前『十字路のあるところ』という書名で発刊されたことを最終ページで知り、少し納得した。正直イメージ化しにくい文章が続くなあと思い、今まで読んだ著者の世界観と同様な感じを持ちつつも、馴染みにくかった。それは「十字路」という場の設定が強く出されていたからではないか。

2018読了35
 『水晶萬年筆』(吉田篤弘  中公文庫)




 「雨を聴いた家」という作品中にこうある「或る十字路の中心に立つと、そこから四方に見えるその先にもそれぞれ十字路が望める。十の字が十の字に繋がり、十、十、十と蜂の巣のように張り巡らされている」。「」と呼ばれる場所や都市計画によって出来た「」だ。頭で理解できても、そこに体が居付けない。


 今、私達はたくさんの十字路を知っていて、日常的にずっと歩いているが、個に立ち戻ったときの原風景は曲がりくねった田舎道。でこぼこ道ではないかという気がする。「黒砂糖」という作品は、都会の夜道で小さな植物の種を蒔く男が出てくるが、その種と水が据えられるのは「コンクリートの隙間」なのである。


 少年時から抱いた「」への憧れは、様々な要素があったと思うが、最後にある「ルパンの片眼鏡」という作品がなかなか暗示的だ。「ルパン」を名のるその男は、路地裏から路地を抜け出て通りへ向かい、通りを渡って大通りへ出て、「街そのもの」に向かって叫ぶ。「俺はもう」「お前たちから」「盗みたいものが何もない」


 「ルパン」は、誰にも気付かれぬように盗んできたものを、今度は返してやると息巻く。それはどうやら物質的なモノではないようだ。「今はもうあっちが大怪盗なんだから」という言葉が象徴的だ。あっちとはまさしく「」のこと。様々なレベル、階層で比喩できる表現だけれど、私たちもずいぶんと盗まれてきた。