すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

書に諭された一瞬

2018年04月17日 | 雑記帳
 日曜日に秋田市で『漫才サミット』という公演があり、わくわくして出かけた。しかし、なんと強風の影響で飛行機が空港に降りず、中止になってしまった。中川家、ナイツ、サンドイッチマンによる共演、プレミアムチケットになっているほどの人気企画である。漫才に絞って観ることは稀なので、本当に残念だった。


 小雨の中、会場入り口で中止のアナウンスが繰り返され、ほとんどの人が肩を落として戻ってくる様も珍しいものだった。「せっかく休みを取ってきたのにぃ…」と残念がる声も聞こえ、入口付近では泣いている女の子も…。遠くから来たのかなと想像してしまう。こんなこともあると苦笑いで済ませる自分はいい方だ。


 さて、映画でもと検索したが観たい気にさせる作品もなく、近くの施設の中へ入る。大がかりな展示なかったが、書道展があったので覗いてみることにする。伝統ある会の第五十回記念ということで、当町の見知った方の篆刻作品も並べられていた。書くのはもとより鑑賞する力も足りないのだが、一つに目に留まった。



 それは作品そのものというより、書かれた漢詩の方に関心が向いた。それは夏目漱石の「題自画」。全くこの分野の素養がなく、学生時代に見ているかも知れないが、実質的には初見である。漱石の俳句にはいくつか馴染みがあるけれど、この五言絶句は、何か格調高く、浅学な自分にとっても心に迫ってくるものがある。


  題自画(自画に題す)

 獨坐聽啼鳥(独り坐して 啼鳥を聴き
 關門謝世嘩(門を関(と)ざして 世嘩(せいくわ)を謝す
 南窓無一事(南窓(なんさう) 一事無く
 閑寫水仙花(閑(かん)に写す 水仙の花


 調べると漱石には「題自画」つまり自分の書いた画の余白に書いた詩が、これ以外にも有名な作品があるようだ。いずれも心静かに対象と向き合って、世の中や自分を見つめ続ける。いわば「隠遁者」としての矜持ではないか。漫才なんか観て笑っちゃいたいという心は如何なものか、と書に諭された一瞬(笑)でした。