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心構えだけ語る命令者

2018年04月22日 | 読書
 1944年と2016年が一気につながった瞬間でした。

2018読了44
 『不死身の特攻兵』(鴻上尚史  講談社現代新書)


 この結びが示すのは、一昨年秋に報道された、自衛隊の「駆けつけ警護」に関する話題である。自衛隊員にその警護の参加に関してアンケートが実施された。「1熱望する 2命令とあらば行く 3行かない」の三択で、3に丸をつけると上司に呼ばれ、「なんで行けない」と問い詰められ変更したことが明らかになった。


 よく知られている、特攻は「志願」によって出撃したという形式的な欺瞞とそっくり同じである。何故こうした形で繰り返されるのか。それは組織にある「命令する側」と「命令される側」の問題に行き着く。戦後になって、その特攻について雄弁に語った人は皆「命令する側」であり、引き継ぐ者はそれと同様となる。


 美談にされてきた訳は言わずもがなである。特攻という作戦が準備され、実際の効果が上がらなくとも続けられた理由は、その目的が「戦果」にあるのではなく、つまり「死ぬこと」によって、対戦国ではなく「日本国民と日本軍人に対しては有効だったから」と語られている事実に得心する。悲しい末路を感じる。


 精神主義の怖さを物語る典型である。「気合いだ、気合いだ」と叫ぶことは鼓舞として一定のパワーを与えるが、誰も本筋とは考えない。著者は「職場の上司も、学校の先生も、スポーツのコーチも、演劇の演出家も、ダメな人ほど、『心構え』しか語りません」と書く。具体的に必要なのは「リアリズム」なのである。


 著者は日本の風土が持つ特殊性を明らかにし、「ただ『続けることだけが目的』となっていることが、この国ではとても多い」と指摘する。反発を覚悟で、夏の高校野球等にも触れている。戦争や災害は「非常時」に違いないが、命を守る「平時」になっているか問い続けないと、「命令」に縛られる国になってしまう。