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突きつけた指の先に

2018年11月05日 | 読書
 この小説を読みふと思い出したことがある。我が子が親を超えていく時は誰もが通る道だ。私がそれを経験したのは10年ほど前だった。その子本人に関わる結果に対する受けとめ方を話していて、親の自分の方が幼い考えを持っていると感じた時だ。一面では嬉しく感じながら、複雑な心境になったことを覚えている。



2018読了103
 『まともな家の子供はいない』(津村記久子  ちくま文庫)


 自分の家族や周囲に対して「怒れる中学3年生のひと夏」を描いた表題作と、スピンオフ的に同級生らの物語が書かれた一篇が収められている。読み始めてしばらくは、不快な感じが続いたが、だんだんと主人公である女子中学生の怒りに、馴染んでいった。現代の40代を中心とした親の世代に対して、ある面痛烈に滅茶苦茶に斬り込んでいく。


 受験を間近に塾へ通う主人公らが、夏休み期間中の宿題をいかにラクに仕上げられるかと心を砕く様子には、「生き凌ぐ」印象を持ってしまう。凌いでなんとかなる日常があることによって、人は何を学ぶか。この点は興味深い。「セキコは、力ない笑い声をたてながら、どこの家もどいつの親も、と世界に向かって人差し指を突きつけたくなる


 突きつけた指の先に何があるのか、おそらくそれを知るためには少し時間がかかる。しかしその時間の経過によって、突きつけるエネルギーが力を失う場合もある。感受性の強い思春期の思いをどう昇華させるかは、人の生き方を左右するといってもいいだろう。変化の激しい社会の中で、維持すべき心根はやはり幼児期の培いにあるだろうか。


 解説で臨床心理士の岩宮恵子が次のように書いた。「いつまでも若いということが評価される社会では、子どもっぽい意識のままで生きていくことも容認されやすく、『大人の責任』から逃げ出しやすくなっているような気がする」。総活躍社会と称して打ち出される政策は、どこか成熟と離れたイメージを伴う。総幼児化社会に陥ってはいけない。