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理解し合うという信念を疑え

2018年11月27日 | 読書
 外国人労働者受け入れの問題が国会内で喧しい。
 いくつかの論点があるが、どのような形になるにせよ、時代の流れは止めることはできない。
 肯定的か消極的かを問わず、自分の構えは準備せねばならない。

 漠然とそんなことを思う頭の中に、文化人類学者の小川さやか氏が書いたコラムの一節が、鋭くくい込んできた。

Volume.132
 「郷に入れば郷に従え。」日本人の多くはこの言葉を実践しようと努力し、自国で暮らす外国人にも同じ努力を期待する。その期待が容易に抑圧的な同化主義に転化することにあまり敏感でないままに。そして互いの文化を深く理解しあえば、うまく付き合えるという『信念』を持ち、他者に対する無関心を『悪い』とみなしがちだ。だが、他者理解のハードルは高く、結局、他者との付き合い自体を敬遠してしまう。」



 私達は学校で、社会で、何の疑問も抱かず、人間同士が理解し合うことの大切さを教えられてきた。
 そして私も教えてきた。
 だが、生活の範囲が拡がれば拡がるほど理解は難しくなり、国際化の波によって難しさが増すことは一般常識になっている。
 ただ「理解し合う大切さ」は揺るがないままに持ち合わせているといっていいだろう。

 小川氏はその「信念」に揺さぶりをかけている。
 氏はアフリカ研究が専門だ。現在はタンザニアの商慣行をテーマにしており、香港でそうした交易人たちとの友好的な交流も深いようだ。
 その経験をもとに、こんなふうに語る。

 彼ら(中国のタンザニア人)は自身を相手に深く理解させようとしないし、お互いに扱いやすい人間になることを期待しない。

 平気で約束をすっぽかす反面、知り合ったばかりでも気軽に誘いご馳走してくれる彼らの暮らしぶりに、ある強靭さを見ている。

 それは文中から拾えば「異文化『理解』を前提にしない方法」にある。
 今の多くの日本人には難しいだろう。
 学校教育の場で強調して教えられることはためらわれる。


 ただ、誰しもが、いずれ異文化との接触が増えるならば、無理のない形で進めたいと思っているのではないか。
 そのためには、選択肢がたくさんあった方がいい。
 今までの信念からややズレたとしても提示しておくことで、幅の広がる可能性がある。

 無理の少ない形で異文化との接触、交流を進めていくには…。
 「おもてなし」をことさらに強調する国民には難しいのだが、この一言を心に留めておきたい。

 「無理」は、自身あるいは他者を理解しやすい対象としようとする時に起きる。


 ひとまず、理解しようと努めないでその時々に合わせた対応でよくないか。
 言うに易く行うに難い姿勢かもしれないが。