すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

実践例と補強理論だった

2019年08月05日 | 読書
 先日「生物として正規の部分は過ぎている」と書いた。いろいろな面からそれは証明できる。社会的には日に日に押しやられるような存在であることを自覚しつつも、それでも一個の自分は活動しているわけで、そこに「甲斐」は求めたい。教え諭してくれるのは人生の先輩とお医者様だろうか。ということで二冊。


2019読了75
 『一〇三歳になってわかったこと』(篠田桃紅  幻冬舎)


 四年ほど前に話題になった一冊だ。百歳を超えた方々が時々TVに登場する。かなり限定的な方々と思うが、共通するのは心の持ち方だろう。この本で言えば「自然体」。それも一様ではなく、つまり「誰か式、誰か風、ではなく、その人にしかできない生き方」を指す。簡単に見えて、ひどく困難のように思える。


 著者は墨を用いた美術家として名を成した。その生涯はもちろん平坦ではなかった。その中で大切にしてきたのは「感覚を磨く」こと。芸術家としては当然とも言えるが、それこそが自分を大事にする芯になるのではないか。例えば「」、例えば「虫の知らせ」…根拠がないと切り捨てられてきた。自分を信ずる心と共に。



2019読了76
 『自分が高齢になるということ』(和田秀樹  新講社)


 著者の書いた本は結構読んでいたはずだが、「高齢者専門の精神科医」という認識は持っていなかった。心理学や学習法などずいぶん読みやすい印象がある。この本もすらすら読める。主張もわかりやすい。ただ読み始めるときの前提にを受け入れるにはちょっとだけ覚悟がいる。それは「人は、誰でも、必ずボケる


 この齢になると将来はボケるか寝たきりかの二択だな、と時々頭をかすめる。ただ、事故等による寝たきりは別にしても、ボケは部分的・限定的であるという事実の大切さを見逃してはいけない。そこを出発点として、今をどう生きるか、どう考えるか。ボケを「新しい力」と真から思えるしなやかさを身につけたい。


 読了後に思うのは、この二冊は「それしかないわけないでしょう」の実践例補強理論だったということだ。