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不可視の部分が響きだす

2019年08月10日 | 教育ノート
 木曜、一年ぶりに野口芳宏先生の講座を拝聴した。読了した『教育と授業』があったので、本当に久しぶりにサインをいただくことにした。先生に書いていただいた言葉は「異に学ぶ」。宇佐美寛先生との共著にふさわしいと言える一言なのだが、この著で結びに先生が記された、ある意味で意外な一文が思い出された。


 それは「人はそう簡単には『変わらないものだ』ということに気づき~」の箇所である。ふだんから先生が口になさる「教育も指導も授業も、その本質は向上的変容の保障にある」わけで、学ぶ意義はそこに集約されると言っていい。しかしまた、それは困難な営みであることを今回の往復討論は示したことにもなる。


 では「学ぶ価値」とは何だろう。先生は「随分考え、吟味し、ゆさぶられたその過程には大きな価値があった」と書かれた。それは「不可視の部分での変化」となる。これは噛みしめたい。主催者が講座に付けたキャッチフレーズは「明日の授業が楽しみになる」だった。参加者はこの意図をどうくみ取ったのだろうか。


 「明日の授業が楽しみになる」ためには、何が必要だろうか。指導や生徒理解等の技術もそうかもしれないが、もっと根本のところで言えば、教室が「教師」にとって「学びの場」になっているかどうかだ(青臭い話で、そんな輩は給料返納しろっと叱責を受けそうではあるが…)。その姿勢は、子どもにかなり伝わる。


 もちろん単純な話ではない。意識的、計画的な積み重ねは必須だろうし、周到な準備とは裏腹に途方に暮れる経験も必要だろう。可視的なそれらが心の中の不可視の部分を作りあげていく。そういった実感に支えられていく。一流の方々に学ぶ時、そうした部分が響きだす。その音に耳を澄ましてみる時間は貴重だ