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教育現場とはどこか

2019年08月28日 | 教育ノート
 館内に展示していた地域文集はもうそろそろ撤去の時期に入る。段取りを考えていた矢先に「この文集の発刊元の、羽後町教育振興協議会とはどういう組織ですか」と訊ねられる来館者がいらした。聞けば、隣県岩手の方で遺跡調査関連のことで来県し立ち寄ったとのこと。名刺裏には「児童文学者」の文字もあった。


 かの協議会については私も関わりが深いのでいくらでも喋ることはできるが、質問の本筋はその中身というより、最近の教育のあり方や動向を指しているようだった。一つ胸を衝かれたことがある。その県の教育長も出席する会議に参加された時に、教育長が「教育現場」という語を使ったことに対する疑問であった。


 「その現場とはどこか」と訊ねられたそうだ。教育長は「学校」と答えたが、その返答を「現場とはそこだけではない」とたしなめたと語られた。確かにその通りと思った。教員や学校関係者は、どうしても「教育現場」を、学校教育の場そのものや周辺を指して使うことが多い。慣習的な言い回しに潜む問題がある。


 もちろん私もそう言ってきた。それは間違いではないけれど、現場は家庭教育にも社会教育にもある。その対象者のなかには間違いなく、学校教育に籍を置く児童生徒が入る。誰しもが思うことだが、子どもがそれぞれの場で見せる姿は一様ではない。それは何に起因するか。大人の存在であることは否定できない。


 「現場」である認識をみんなが持っていれば、協議会的な組織は弱体化しないはずなのに…話し込むうちにそんな考えが過る。忙しい、無駄を省く、効率よく…そう理由づけられ無くなったり形骸化したりした組織が目立つ。そして徐々にそれぞれの現場が果たす教育性が弱くなっている。そんなスパイラルが浮かぶ。