すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

平成元年8月12日の頃

2019年08月12日 | 雑記帳
 令和でなく平成である。その日は次女が産まれた日だ。娘はつい最近無事に出産し母親になった。今どきの夫婦らしく「立ち合い出産」だった。で、三十年前の自分は、というと病院にも行けなかった(行かなかった?)記憶がある。なんとも情のない、だらしない父親であったことか…いったい何をしてたのかと想う。


 三十年前というと1989年。その頃の学級通信の合本があるはずと、書棚を見てみた。まるで、探すのを待っていたように、その号だけが見当たらない。合本を始めたのはその数年前で、他の年度は全部揃っているのに、なぜかその年度の中間部分(7~10月頃)だけが欠けている。不思議だ。五年生を受け持っていた。


 通信の題名は『タッチⅢ』。「Ⅲ」とは、つまり三年目の持ちあがりである。これが「」まで続く厳しさを知る人は、さほど多くないはずだ。特に辛い年だったかもしれない。かの初任者研修が始まり指導担当になった。学級担任なのに、だ。初任者の学級に入り授業をした。受持ち学級の授業代替は、若い講師に任せられた。


 初任採用者と大学を出たばかりの講師、二人の面倒をみることになったわけである。担任している男児たちが女性講師の言うことをきかず…なんてこともあった。その年度の合本2冊を広げて読んでみる。しかし自分で言うのもなんだが、腹一杯になるほど、実践記録や保護者・家庭へのアピールであふれていた。


 教育技術の法則化運動(TOSS)に学んでから数年経ち、少し幅を拡げた時期にあたる。たぶんネットワーク運動に加わった年だ。学級通信をずっと経営の核としてきたが、「自学」を本格的に取り上げたのもこの年度だったのだ。国語科の教材開発に加え、他教科や領域等の追試、子供たちとのパーティ実践なども目立つ。


 春休み!に学級PTAレクリエーションまでやっているではないか。よくもまあ、今だと全然想像できない。保護者との付き合いも多かった。それでいて自宅では能無しで過ごすという…申し訳ない気持ちが今頃湧いてくる。我が子の出産時に病院へも駆けつけていないのだから…三十年後、祖父として罪滅ぼしをします。