谷川俊太郎が「『猫をおくる』を読んだ日」という題で、新潮社の月刊PR誌「波」に詩を寄せていた。
書評というべきかどうかかわからないが、新鮮な気がした。
その中の一節である。
「猫のアタマは
言葉じゃないものでいっぱいだ
私のアタマは
言葉がないとからっぽだ」
これは論語ではない私の四行
別に猫好きではないので、深く共感したわけではない。
ただ、毎日短時間ながら、孫と接する自分の感覚に近いなあと、しみじみ読んだ。
今おそらく、言葉が言葉であることを体得しつつある一歳十か月の児。
しかし、まだアタマの中は、言葉じゃないものにあふれている。
そのひとつひとつ、いや個別には拾いきれない、名づけもできない、どろどろのような情動とは、なんと貴重であろう。
それを毎日、何か形のあるようなものにしたい、言語化に近づけたい、人に誉められるような「お利口さん」の行動ができるようにしたいと…老いた顔や体を使って奮闘している祖父母つまり自分たちとは、ひょっとしたら罪深い存在ではないか。
この児の社会化に貢献するより、もっと大切なこと…そう言葉じゃないもの、言葉なんかで揺らがないもので、その小さな心身を満たしてやることを心がけたらいい。
そう思いつつ、「私のアタマ」は、また言葉を注ぎ込もうとしている。
そんな自分に気づいたら、口を閉じて、ちょっと強めに抱きしめるしか手はないか。
書評というべきかどうかかわからないが、新鮮な気がした。
その中の一節である。
「猫のアタマは
言葉じゃないものでいっぱいだ
私のアタマは
言葉がないとからっぽだ」
これは論語ではない私の四行
別に猫好きではないので、深く共感したわけではない。
ただ、毎日短時間ながら、孫と接する自分の感覚に近いなあと、しみじみ読んだ。
今おそらく、言葉が言葉であることを体得しつつある一歳十か月の児。
しかし、まだアタマの中は、言葉じゃないものにあふれている。
そのひとつひとつ、いや個別には拾いきれない、名づけもできない、どろどろのような情動とは、なんと貴重であろう。
それを毎日、何か形のあるようなものにしたい、言語化に近づけたい、人に誉められるような「お利口さん」の行動ができるようにしたいと…老いた顔や体を使って奮闘している祖父母つまり自分たちとは、ひょっとしたら罪深い存在ではないか。
この児の社会化に貢献するより、もっと大切なこと…そう言葉じゃないもの、言葉なんかで揺らがないもので、その小さな心身を満たしてやることを心がけたらいい。
そう思いつつ、「私のアタマ」は、また言葉を注ぎ込もうとしている。
そんな自分に気づいたら、口を閉じて、ちょっと強めに抱きしめるしか手はないか。