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勘違いや思い違いを消さない

2020年02月01日 | 雑記帳
 先日のように回顧録を続けたりすると、何か自分を美化しているのではと思える一瞬がある。もちろんフィクションを書いているつもりではなく事実と認識しているわけだが…。高齢者予備軍夫婦の日常は、勘違いの指摘に終始する会話がよくあり、やはり都合のいい解釈をしているなあと、気づかされることも多い。


 スイッチを押したか押さないか、先日のいただき物をどこに置いたのか、はてはまだ食べていないか、食べてしまったかなどまで、言い争うほどではないにしても確実にその手が多くなる。まあ家庭内のことならともかく、仕事が絡めば、それでは済まされない。だから自覚すること、諦念することが大事だと思う。


 『波』2月号に、今月亡くなった評論家坪内祐三の追悼文を作家重松清が書いていた。坪内の文章は雑誌でよく見かけ、その博学ぶりが気になる存在だった。重松は親しい友人として、酒場で言われたことを披露しているのだが、坪内に対して記憶違いを正したときに、その誤りを認めつつ、こんなふうに語ったという。

 「勘違いとか、思い違いとか、そういうのって、消さないほうがいいんだよ」

 なんだか、ほっとする一言だ。重松は書く。「かつて確かにあったものを保ちつづけられないところに、人間の弱さ/面白さ/強さを見出す…」その通りだ。全て居直りを正当化するつもりではないが、所詮居直ってしか生きていけない現実がある。何故勘違い、思い違いをしたか、ちょっとだけ振り返る習慣も大事だ。


 ある事象についてそう思いたい自分がいる、そう見えてほしい気持ちが強い、ということだ。繰り返されたゆえに染み付いた見方とも言える。仮に本当の願望とは裏腹に思えるネガティブなものであっても、心の底がそれで覆われたのは、受け入れる素地があるからだ。その弱さや情けなさも、まるごと認めていこう。