すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

桜、桜、桜

2020年05月10日 | 雑記帳
 昨日、朝刊を開いたら、見開きで「2020県内の桜プレーバック それでも花は咲いた」という特集面があった。県内名所の満開の桜写真が高校生による短歌・俳句を添えて彩られる。どれも若々しい響きをもっている作品であり、エネルギーを感じた。年配者だといかに巧みでも様相が違ってくる。なかなかいい企画だ。


 別紙面では「えんぴつ四季」という読者欄に、先輩教員が寄稿されていた。それは「」と題され、幼くして病死した我が子への思いや仕事復帰後の同病の子との出会いなどが、家族で見た桜の思い出とともに回想できる旨が綴られていた。本人でしか知り得ない心境であっても、あの花と重なる意味は理解できる。


 午後から『静かに咲く 弘前公園の名桜』という番組が放送された。青森県と弘前市が無人の公園の様子を記録化した。観桜としては最高の名所と信じている桜を、出演した奈良美智は「人が居ないので桜は幸せそうに見える」と語ったが、自分は逆だった。人が眺め、集う笑顔をバックにしないと寂しそうに見える。


 2020.4.23 羽後町アルカディア公園にて

 「今年の桜」を世の中の人がどんな思いで見たか、または見なかったか。安易に語ることはできない。ただ、少し撮っておきたいと出かけたとき、天気のせいではあるが(今年は曇天の日が多かったと思う)。どこか「笑っていない」ように感じた。控え目な輝きは、今年見上げた者たちの心の反映ではないかと思った。


 ちょうど土曜の朝から『暮しの哲学』(池田晶子 毎日新聞社)をベッドで読み始めた。死後に出版されたエッセイ集の一つである。季節ごとに構成されており、それが急逝する前の一年と知る時、なおさらに響いてくる文章だった。人が年老いてくると「桜」への思いが強くなる世の倣いを、池田はこう語ってみせた。

「人生は、過ぎ去って還らないけれども、春は繰り返し巡り来る。一回的な人生と、永遠に巡る季節が交差するそこに、桜が満開の花を咲かせる。人が桜の花を見たいのは、そこに魂の永遠性、永遠の循環性を見るからだ。」

 永遠はないと知りつつ、それを願っている心が揺さぶられた春だった。