すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

カキフライな訳

2020年05月28日 | 読書
『カキフライが無いなら来なかった』
 (せきしろ 又吉直樹  幻冬舎文庫)
『まさかジープで来るとは』
 (せきしろ 又吉直樹  幻冬舎文庫)

の続きで…。
  
 人気番組らしい『プレバド』が日曜昼に週遅れで放送されている。
 先日はレギュラー出演者の梅沢富美男が、俳句作りで「永世名人」に昇格する場面を、たまたま観ていた。
 講師である夏井いつきが、ランクアップの訳をこういう賛辞で表した。

 「季語を信じる力がある

 それが俳句をつくるうえでの最大ポイントでもあるかのように、力強い言葉だった。

 そうかあ…句作など年に一度、二度しかやらないが、今さらながら自分にはない力だと痛感する。
 だから…自由律でやってみたらどうだ!
 と、そんな単純なものではないだろう。

 そんなことが頭をよぎりつつ読む。
 『まさかジープで来るとは』の解説で、俵万智は「(自由律とは)ただの『自由』ではなく『自由』でありつつそこに『律』がないとダメなのだ」と断言する。

 「律」とはそもそも「秩序、きまり」である。
 「自由」と相反する語との組み合わせであり、考えようによってはこれほど難しいものはない。

 で、『カキフライ』の句である。
 そこに「律」があるのか、という問いを立ててみよう。



 無理矢理この句を俳句?風に仕立てたら

 「カキフライ 無いなら来ない 冬の宴(えん)」となろうか。

 これではしょぼい姿はイメージできるが、それほどのインパクトは感じられない。残念、つまらないという感情は見えてもエネルギッシュさが伝わらない。
 それは定型でまとまっているからだとも、あまりに陳腐な下句をつけたからだとも考えられる。

 それに比べると「カキフライが無いなら来なかった」という潔さは、そこに憤まんやるかたない姿が見えて、印象的だ。
 カキフライにかぶりつきたかった話者の現状が垣間見える。

 使った語の流れに、若干の音韻的な要素も混じっている。
 だからエビフライより、カキ鍋より、カキフライがふさわしい。

 しかし、これが「律」と呼べるかどうかは自信がない。


 と、まあほんとに愚にもつかないことを書き並べてしまった。
 締めくくりは、読了記念に作ったことない自由律の句に挑戦。

 「布マスク2枚待つ気あるの」