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よそ者の置いて行った言葉

2020年10月10日 | 読書
 古本屋で見つけた『桂三若いろはに秋田』(さきがけ新書)を読んだ後、書棚にしまって置いた『秋田県民は本当に<ええふりこぎ>か?』(日高水穂 無明舎)を再読した。著者は落語家と研究者、一見何の共通点もなさそうだが、二人とも県外出身者、数年間この秋田で仕事をした。いわば「よそ者の視点」の著書である。



 桂三若は知っている人も多いだろうが、吉本興業の「住みます芸人」として2011年から4年ほど在住した。テレビ等でもよく取り上げられていたし、高座を聞いたこともある。噺家として面白い!とまではいかない。しかしこの本に書かれているギャグは少し笑える。地域の方言、地名などのネタは親近感が湧くからだ。


 三若が師匠文枝から教えてもらった落語家の「二種類の仕事」には頷いた。それは「仕掛ける仕事」と「こなす仕事」。イベント的な捉え方、また新作と古典という見方も出来そうである。さらに言えば一般の仕事も同様であると気づく。そしてこれは地域活性化の視点で語れば、その軸足をどこに置くか考えさせられた。


 日高の専門分野は「方言」であり、常に注目していた。愛読書である『秋田のことば』作成の中心メンバーである。『秋田県民は本当に<ええふりこぎ>か?』も発刊されてすぐ読んでいて、メモもしてあった。五年過ぎた今読んでも、なかなか刺激的な文章が並ぶ。「『ええふりこぎ』の心」と題した章の結びが典型的だ。

「堕落する者はさげすまされ、派手な振る舞いをする者は白眼視される。お互いがお互いを監視し合う中で、目立たないように、突出しないように気を配りながら、横並びであることを維持してきた」


 「ええふりこぎ」と対になって使われる「かまけぁし」(破産者)と、二語から見える「秋田の精神風土の一面」とされている。以前から言及されてきた閉鎖性を言い表している。私たちもよく知るようにそこで尊重されるのは「こなす」ことであり、「仕掛ける」ことではない。「よそ者」たちもそう言って去っていった。