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桜と絵本と豆乳と

歳時記に季節があるわけではない

2020年10月21日 | 雑記帳
 作句はほとんどしないが、歳時記は結構揃っている。その割に身についていないのが正直なところ、しかし読んでいて何かしら心に響くものがあるから手にするのだろう。今回は『「歳時記」の真実』(石寒太 文春新書)を買い求めた。最初からではなく「秋」から読み始めたが、初めて知ったことのあまりの多さよ。


 「秋」の冒頭句は「雲の峰いくつ並びて海の盆」(森澄雄)である。ここからして躓く。「雲の峰」は夏の季語じゃないか。「盆」は…夏か、いや盆→盂蘭盆会→ウッランバナ(サンスクリット語)→「旧盆に行われる秋の魂祭り」と説明があって、秋に入る。季語が重なっているようだけれど、盆の「強さ」で秋なのか?


 きっと専門的な分析はあるのだろう。そこまで立ち入らなくてもと思い読み進める。すると存外に面白い。ネタばれしない程度に書くと「朝顔が秋の季語である訳」「バナナが好きで、その名を俳号にした人」「『柿くえば』の鐘は、法隆寺ではない」…といった、いわばトリビア満載だった。改めて歴史を背負う文学だ。



 「雪月花」…日本の美がその三つに象徴され、冬・秋・春にそれぞれ位置づけられている。それを伝統と見るか、単に古いだけとするか。秋から冬、新年と読み進め「はじめに」に戻ると、歳時記そのものの歴史などについて書かれてあり、興味深かった。「通季」という区分も出てきているらしい。季語の弱体化か。


 月曜日の夕刻、小さいほうの孫を乳母車に乗せ、散歩した。少し暮れかかった空から、聞き覚えのある鳴き声がするではないか。「渡り鳥」だ。今年初めて耳にした。数は十羽に満たないが、揃って南を目指して飛んでいく。これは紛れもない秋。揺るがない季節があるなあと、ぽかんとしている幼子に語りかけてみた。

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