すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

絵本と向き合う時間を

2020年10月08日 | 雑記帳
 『100万回生きたねこ』に「かなしい」という語は一度も使われていない、と気づかされたのは、先日出席した県主催「読み聞かせボランティアステップアップ講座」の席だった。当たり前だが、そこに絵本の一つの本質が見える。つまり、読み手(聞き手)は言葉からだけでなく、絵から読み取っているということ。


 どんなふうに聴かせようかと、言葉の部分の工夫は怠らないが、一個の読み手としてきちんと絵と向き合っているかと問われると、少し怠慢だ。講師は精神科医の仕事をしながら、絵本専門士の肩書を持つ方で、非常に参考になる話が多かった。「一枚の絵の中には『五感』がある」…これは、方法論としても有効だ。


 論理性の他に、そのページから感じ取れる「視・聴・臭・触・味」を挙げてみることが必要かもしれない。それは自己の創造的能力と関係が深い。結構時間のかかる作業と見ていいだろう。音読だけではなく、もう少し「向き合う」時間を丁寧にしようと思った。さて、肝心といえばそもそもの読み聞かせの意義だが…。


 「子どもは絵本で予習し、体験して、絵本で復習する」…メモしつつ、こういう考え方は汎用性があると得心した。講義の導入時に講師の語ったことである。絵本との出会いを体験の予習や復習と考えれば、対象者によって選書する観点が絞られてくるし、読み方(演出の仕方)に関してもポイントが定まりやすいか。



 昨日、『かならず成功する読みきかせの本』(赤木かん子 自由国民社)という本を、今さらながら読みだした。題名からはハウツーのように見えるが、内容のユニークさは際立つ。ただ「読む目的」は「”幸福な時間”を、その子に、”今!”すごしてもらうために、本を読むのです」とある。当然それ自体が体験なのだから。