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ジョシたちのキニナルキ

2020年10月03日 | 読書
 数年前、地域おこしに関わっている若い方と話をしていた時のことだ。映画やドラマ、それから自分で撮った写真の話題で盛り上がっていたら、その若い方からこんなふうに言われた。「なんか、女子力がありますねえ」えっ、そうなの。初めての評価に戸惑った。意味をどう捉えるか様々だろうが…印象に残っている。  


 女子力がある男子(笑)というのも変だが、ジョシリョクに興味はある。ただ、女子力ではなく、「女史力」かな。小説やエッセイなど読む割合にしても、なんとなく女性の書き手に惹かれている傾向があるやなしや…。手元にある雑誌『波』を見ても、おっと思う表現を拾い上げてみたら、あれあれ女史だらけではないか。


 書評のなかで、川上弘美は書いている。

「芭蕉と連衆たちのまいた俳諧の連歌が、時には途中で未完のまま終わってしまうことがあっても、(中略)まかれたというそのことだけで、書かれたというそのことだけで、つづまりをつける必要など何もない全きものとなってあるのだ。」

 この潔い見方を、文語的な語彙を使って表現できる素晴らしさよ、と思う。



 実父の介護をテーマに新連載を始めたジェーン・スーが、そこまでの経緯に絡めて、自己分析をこんなふうに語る。

 「問題解決が好きなのは、私の長所であり短所なのだ。端的に言えばお節介。自分から手を出しておいて、感謝が十分でないと傷ついてしまう。それはあまりに勝手だろう。恋愛じゃないんだから。」

 このモリモリ立ち上がっていく文体は、なかなか男子には見られない性向かもしれないと考えたりもする。


 なんと、その次のページには、かの塩野七生がこんなふうにインタビューに答えているのではないか。

 (2017年の著作を書き上げたあと)「これで私も死ぬな、と思っていたら死ななかった。生きているのに何もしないというのも、けっこう疲れるんですよ。それで、疲れるのなら、いっそ書こうと思い…」



 「女史」という語は「記録をつかさどった女官」という歴史を持つが、かなり強力だということを改めて思い知るような気分になる。