すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

立ち往生から進む

2007年09月17日 | 読書
 たまには小説でも、と思って選んだのが『しゃべれども しゃべれども』(佐藤多佳子著 新潮文庫)。

 実は5月に映画を先に見ている。
 原作は冒頭から映画には登場しない人物との絡みが結構続いていて少し面食らったが、逆にこれまた新鮮であった。結局そういう箇所の方がより興味を持って読み進めることができた。当然といえば当然か。
 なかでも、主人公三つ葉の師匠である小三文の弟弟子、草原亭白馬の存在はストーリー全体を結構締めているように感じられた。スクリーンに登場させなかったのは、印象が強すぎるし落語への踏み込みが大きくなると考えたのかもしれない。

 さて、この本を今朝から読み始めていたのだが、途中たまたまテレビを視たら、BSで「敬老の日特集」として立川談志が取り上げられていた。
 「立川談志 71歳の反逆児」
 2月の再放送らしい。談志ファンというわけではないがさすがの迫力が感じられ、1時間半ほど思わず見入ってしまった。

 貴重な映像という立川流の二つ目昇進試験?の場が凄まじい。談志の孫弟子にあたる前座数人が、家元である談志によって審査されていく。そのやり取りは半端ではない。落語だけではなく、踊り、謡い、講談、民謡など芸事全般に関して家元に言われたとおりに披露し、質問に応えていかなければ昇進が叶わない。「昇進のため」の精進ではなく、まさしく精通が要求されているように見えた。目も口元も、みんなその場の緊張を作り出していた。

 番組を見終わり再び読み始めた本で、ふと重なる場面が出てきた。
 主人公三つ葉が、白馬師匠を訪ね、その「文庫」(収集した膨大な資料)を見せてほしいと頼む。
 古典落語に固執する三つ葉に対して批判的な白馬だが、「貸してやるとも」と言い放つ。しかし次の言葉に、三つ葉は自分自身のうかつさを知ることになる。

 「何の何を欲しいと言え。すぐに出してやらあ。」

 ここにも、圧倒的な知識の前に立ち往生している人物がいた。

 そこから踏み進んでいくためには必要なものは数々あろう。
 しかしぎりぎり何かと問われたとき、この本の中に答を見つけるとすれば、白馬師匠が二度目に登場し、一門会でやり終えた三つ葉の落語を評したつぶやきではなかろうか。

 「真っ正直に惚れやがって」
 

世界を救えなくても…

2007年09月16日 | 読書
 『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』は、第一話がタイトルと同じであり(つまり「はだかの王様」を扱い)、おしまいの「泣いた赤鬼」まで全15話構成である。
 集英社の雑誌の連載で、いくつかの号の話が割愛され新書にまとめられた形のようである。

 けして童話にあかるいわけではないので、いくつか読んだことのない話も取り上げられていたが、それなりに楽しく読むことができた。
 文章のスタイルは全てが同じではなく、続き話あり途中の書かれていない部分の想像(妄想)あり、または自分の子供に読んで聞かせる形あり、と様々だったこともあるだろう。

 読み通して、このパロディ化のストーリーは当然違うわけだが、共通の要素を持つことが繰り返されていることにも気づく。これは筆者である森の信条めいたものではないかと考えられる。
 自分なりの視点であるが、次の三つが思い浮かぶ。

 いつも立場を換えたらどうか考えてみる
 何気なく使っている言葉を疑ってみる
 過ちは繰り返されるものだ

 メディアの世界に長くいる森は、そう思わざるをえない日常をずいぶんと目にしているようだ。ほんの少し視点をずらしただけで、全く違うものになってしまうことを肌身で経験しているに違いない。
 社会風刺としても十分に読める内容だった。
 
 さて、あとがきから想像したことがあって注目した第一話の行方。
 初っ端から森は結末を二つ用意して読者に委ねる形をとっている。しかし、その後の十四話にはそんな形式はない。やはりここに森は自分自身を重ねているのではないか。
 「王様は裸だ」と言った子供の父親と、王に仕えていた将校が仲良くなり、将校がやがて将軍になるところまでストーリーが続いたところから、結末が二通りに示されている。
 二つの結末には、どちらも教訓の形が示されていて以下の部分が共通している。

 教訓。鈍さは時として世界を救う。しかし持続はしない。

 そして、最後がこのように分かれる。

 何よりも自分を救えない
 時には世界を壊す

 森は「僕は本音でどちらでもよし」と言う。
 どちらかを選ぶか、いやどちらもありなのか…ここははっきりさせてほしいなあ。自分のことなんだから。
 それとも世界を救えない自分にいらだっているのか…。

 実は、もっと印象的なのは「みにくいあひるの子」の巻である。
 わが子とおぼしき読み手を登場させた森は、その子にこんなことを言わせて、アンデルセンを皮肉っている。
 ここにも、自分を垣間見ているのか。

 「ダメじゃんアンデルセン。他人の評価で終わらせちゃ」
 

王様は裸だと言った子の行方

2007年09月15日 | 読書
 時折本をまとめ買いすることがある。先日もそうだったが、4冊ほど手にとってレジに向かう途中の新書コーナーで、思わず背表紙のタイトルが目に留まり買い足した本がある。

『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』(森達也著 集英社新書)

 家に帰ってから椅子に腰をおろし、中身をめくる前にもう一度表紙を見て「なんで、この本を即決したのかな」となんとなく考えてしまった。
 もちろん、その題名の面白さに惹かれたということだ。

 だいぶ昔のことになるが、大先輩の先生にこんなことを言われたことがある。
「『うさぎとかめ』を高学年の道徳でやったらおもしろいよ。感想文を書かせても、高学年なりの様々な感想がでるもんだ」
 早速当時受け持っていた学級で取り上げてみたら、これが最高におもしろい。記録を残して置けなかったのがつくづく残念である。
 寓話や童話は、ネタになりやすいなあと思ったのは、その頃だったろうか。

 国語科の物語文などで「続き話」という形でまとめをしたり、評価をしたりする実践はかなり以前からあったように思う。
 自分自身で童話をネタにしたものでは、「『桃太郎』で記者会見ごっこ」が印象深い。教育雑誌の実践でも取り上げてもらった。いわゆる「なりきり」という手法を使った活動は多種多様のものが考えられよう。その中で、多くの子が知っているという条件を満たす意味で童話・寓話の持つ可能性は大きい。

 さて、こうした実践のことを持ち出すまでなく自分は妄想好きなんだなという結論もすぐ出そうだ。
 筆者の森も同じなのだろうか。
 森達也の著した本を読んだ数は多くないが、印象深いものがある。同じ生まれ年という親近感?もあるかもしれない。
 ところで、この本はいつでたのかな、と奥付を見ると、今年の八月二十二日とある。
 ふうん最近だな、となにげなく前へ進み、あとがきを読んでみた。
 そこには、森自身が見つけたネットへの書き込みが紹介されている。

 森達也には使命感も勇気も目的意識も理念もない。「王様は裸だ」と言った子供がそうであるように。目の前の情景に単純に反応しただけだ。つまり致命的に場を見ることができない男なのだ。

 森は、「慧眼だ。まったくその通り」と頷いてみせる。
 そして自分の仕事や子供の頃を回想して「場を見ないやつだ」と呆れられていたような気がする、などとその書き込みに感心した後で、こう書き始めた。

 そういえば「王さまは裸だ」と言ったあの子供は、あれからいったいどうなったのだろうとふと考えた
 
 これが、この本を書く(雑誌連載だった)きっかけとなっていく。童話、神話、物語などを取り上げて、なりきりの手法でストーリーを膨らましていく形であろう。

 それにしても、森が自分自身を物語の子供と重ねあわせたのだとすれば、単なる妄想のような形をとりながら、実は森の行方を示しているのではないか…そんな考えも思い浮かぶ。
 森はどこへ行こうとしているのか、また居直ろうとしているのか…それが興味深いのは、単なる筆者に対する関心だけではなく、ネットへの書き込みがこの私自身にもかなり当てはまるという認識があるからだ。いわば同士の行方だ。

 読み始めてみよう。

学びを伝え、生かして学ぶ

2007年09月14日 | 教育ノート
 今、自分の中でキーワードとなっているのは「往復運動」と「上げ下げ」か。結構昔から目にし耳にしていた言葉なのだが、この頃強く意識していることに気づく。まだ正面きってその言葉で書いたりできないが、今日学校で書き散らしたことも、もちろんそれとつながっている。

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 縷述 「つながる授業」24

 年度の折り返しを前に今後の課題を考えてみたとき、学力向上の面では「伝える」や「生かす」「使う」ことを通してさらに力を高めるというイメージが浮かびました。本校の研究主題具現化にも十分に関わりがあることと思います。
 実際には、次のようなレベルでの展開に分けて考えてみるとよりはっきりします。

 ① 年間活動、学級経営の中で  ② 単元計画の中で   ③ 授業の中で

 具体例として、①では当然「教科横断的な計画」「行事等と教科の関連」「日常活動への取り込み」などが考えられるでしょう。②では、「発表会、製作物等のまとめ」や「体験的活動」などが容易に思い浮かびます。それらは、先生方も十分意識して行っているのではないかと思います。

 ここであえて確認したいことを挙げれば、「ふりかえりの生かし方」ということになるでしょうか。それは、例えば「発表会をやってその後反省をする」という段階まではよくやるのですが、「それではどうしたらいいか実際にやってみる」とか「反省を取り上げた形で、次の機会の目標化を図る」ところまで踏み込んでいるか、です。焦点化してぜひ取り上げてみたいことです。

 さて、③における「伝える」「生かす」「使う」となると、より細かな配慮が必要になってくると思います。いくつかの場面を考えてみます。(もちろんこれが唯一ということではありません)。

 「伝える」は言語活動が大きな部分ですから、子どもの言語活動を保障することが前提と言えます。その点で、何度となく書いた「教師の全体へ向けての言語活動」を絞り込むことが、第一の課題でしょう。それは、音声言語に限らず文字言語も該当するでしょう。つまり、子どもが話す時間、子どもが書く時間を保障しよう…具体的には「発表・話合い・ノート」を明確にした指導過程、児童の板書等を盛り込んだ授業の視覚化計画などを考えてみよう、というのが一つの提言です。

 「生かす・使う」は様々な側面が考えられますが、一番なのは「子どもの発言の取り上げ方」や「きりかえし」になるのではないでしょうか。既習の事項と結びつけた発言をした子を評価する、その発言を既習事項と結びつけられないか問い返す…そうした点をこまめに行っていくことが、学びに敏感な子供たちを育てます。日常からそういう言葉を教師が口にすることも、いい種まきです。夏休みの算数研でも、講師がこんなことを仰っていました。とてもいい例でしょう。

 2年生の先生は、子どもに「暑いから、窓をちょっと開けて」と頼んではいけない。
 「窓を30cmくらい開けて」と頼むべきだ。
 
(9/14)
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風に吹かれて、風を起こそう

2007年09月12日 | 教育ノート
 台風が近づいてきている日の朝だったが、通常と変わらない対応で通した。車で送られてくる子も確かに多かったが、いつも通り集団登校で歩いてきたグループもいた。
 時折傘が吹き飛ばされそうになる風も吹いたり、横なぐりの雨も降ったりしたが、妙に大きな声で挨拶してくれる子もいた。強い風の合間に目を合わせた一年生の子の笑顔が、いつも以上に可愛かった。


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 風

 船の帆を表す「凡」と動物の「虫」が合わせられた字です。「鳳」(ほう)のもとの形と同じと考えられています。
 虫には竜などを表す意味があり、「かぜ」は神聖な竜の形をした神がおこすものという考えがあるようです。また、はためく帆のようにゆれ動いて動物に刺激を与えるかぜという解釈の仕方もあります。

 さて、先週末久しぶりにこの地方を直撃した台風。校門前のコスモスは倒れましたが、大きな被害がなくてほっとしています。
 自然の大きな力の前には小さい人間ですが、人もまた「風を起こす」ことはできます。この後ある様々な会や催しで、今までの学習を生かしながら、子供たちが新しい風を吹かせてくれることを期待する秋です。
(9/10)
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責任を持って妄想する二人

2007年09月11日 | 読書
 妙に惹かれる対談記事を目にした。
 『新刊展望』という小冊子の冒頭は、いつも結構面白い対談があるのだが、今回は特に際立っていた。

 「朗読の言葉、翻訳の言葉」と題された、作家古川日出男と翻訳家岸本佐知子の対談である。
 小説にも海外文学にも疎い私にとっては、どちらの著書も読んだことはない。わずかに岸本の連載エッセイを目にしたことがある程度だ。
 しかし、この二人の会話の面白さ…私にとっては新鮮さと言ってもいいほどで、なかなか読み捨てておく気にならずに、こんなふうに書き出している。

 まず冒頭に引き込まれた。

古川 翻訳している時の言葉はどんなふうに出てきますか
岸本 空っぽの頭の中に言葉が響くという感じです。
古川 聞こえてくる。
岸本 はい。
古川 ボイス系。


 この後、イメージが来るということについて語り合われるのだが、古川の小説の書き方にも思わず立ち止まってしまう。

 書いているとき、中に入ってしまうとおもしろくない。たとえば小学校の話なら小学校のまわりで外から見る。小学生と話なんか絶対したくない。

 なんとなく作家はよく取材をして書くんだろうなあと思っていたが、こういう人もいるのかとちょっとした発見となった(常識なのかもしれないが)。軽口をたたくような調子ではあるが、何かが憑依したような形で書き進められるということも興味深い。しかし、それはまた徹底した作業?のもとで完成形となっていくと古川は言っている。

 俺の書き方は、横書きでも縦書きでも書いて、フォントを変えて書いて、声に出して読んで、それぞれ別々の姿かたちを持つそれら全部が同じ質量を持ったときに初めて、パーマネントにとどめていいものになる。

 ここからの朗読や文字の話が実に刺激的である。「主体は物語にあり」「文字の向こうにあるもの」といった小見出しがついているが、それらでは括れない突っ込みが出てきて思わず引き込まれる。
 岸本の翻訳の話から、古川はこんな言い回しをしている。

 ただ大文字の「犬」。そこに見えてくるものを物語の中に常に召還していって、読者はそれぞれのものを再生すればいい。「dog」の向こうに見えるものは、作家が想像したdogというよりも、作家がそのように想像したであろうと岸本さんが想像したdogを、作家が想像した以上に本物にしてしまったもの。

 作家とはかくあるべきかと少し感動した。古川は言う。
 
 自分のまなざしの強さだけが正しい。

 それに続けて、岸本が言ったことばが、稀代の妄想家!らしいこの一言だ。

 もう、責任を持って妄想するしかない。


 
 

会議を誘導する

2007年09月10日 | 雑記帳
 教務主任になって2校目の学校で「職員会議設定要項」という重々しい?名称をつけて、会議の持ち方について確認を図ったことがあった。
 「議題と提案者一覧」「時間設定の原則」「準備会の設定」「新規提案、緊急事項のある場合の処理」「未決事項が出た場合の処理」がその内容だった。おそらく当時そこまで明文化させた学校は周囲にはなかったと思う。
 焦点化されない話し合いが延々と続く場合もあったその頃、たぶん私の考えていたことは「効率化」であった。勤務時間を越えても話し合うことが熱心であるような錯覚を振り払いたかった。
 
 教頭となって2校目の学校で、授業研究会の協議会の持ち方に手を入れた。校長や担当者の了解を得ながら、先陣をきって授業提示をし協議方法を示した。
 ペアやグループ討議、そしてキーワード提示などという手法を取り入れたものだった。齋藤孝氏の『会議革命』という本に触発され、その内容を組み立てていった。
 会議の参加者が傍観者にならず「全力を出し切る」というねらいを持っていた。話題からそれず自分の考えをはっきり示すことで、研修の目的を達成したいと考えていた。

 振り返ってみてそのどちらも充実していたと思う。
 特に後者の協議会の持ち方は自信を持って全国規模の官製研修にも提示できた。
 ただ、廃校・転任があり単年度限りのものとなってしまい、またその後の勤務校でも正面きって提案できていない。結構なエネルギーが必要であることも確かだし、そのテンポの速さに気後れする人も多いだろうという予測も働く。

 さて、ある雑誌で「会議の誘導法」という記事を見かけた。
 取り上げられているのは、リゾート施設や旅館再生事業で著名な星野佳路氏。
 再生が必要な様々な施設に乗り込み、会議を開き、議論を重ねるのだという。再生者のイメージは、問題点を鋭くえぐり、積極的な提案でぐいぐいと従業員を引っ張っていく…そんなとらえ方であるが、星野氏の手法は若干違うようだ。
 特に「会議の目的」として示された点が興味深い。

 「会議=リーダーの考えを伝える場」というより、「会議=従業員満足度向上のための場」

 もちろん状況に応じて短時間で参加者の合意を引き出す場合もあるというが、最終的には経営に参画しているという意識を持たせ、共感を引き出すことが大切だという。
 
 自分が提案した会議でもその点を全く考えなかったわけではないが、意識は薄かったと思う。
 では、どうあるべきか。
 「誘導」という言葉の持つ作戦的な響きの要素を検討してみたいと考えている。

痛快さを感じてみたい本

2007年09月08日 | 読書
 プロローグは次のように書き出されている。

 2006年9月30日。
 大森修氏が小学校長を退職するちょうど半年前。
 大森氏が校長を務める中野山小学校で公開研究会が行われた。全国から800人もの教師が集まった。

 急な私事があり、直前でやむを得ず断念した会だった。
 テーマや講師などの魅力もあったが、実は何より現役校長として最後の「大森節」を聞きたかったというのが本音であり、それが叶わなかったことが残念だった。

 せめて、この本でいくらか想像をたくましくして大森節を堪能してみたいと購読した。

 『特別支援教育をつくる管理職の全仕事術』(大森修・松野孝雄著 明治図書)

 大森氏と松野氏の共著ではなく、「聞き書き」という形で松野氏が大森氏の発言などをまとめているものである。そうはいってもいわば一番弟子と呼んでもよい松野氏であれば、本人が記す以上に大森節全開ではないだろうか…そんな予想はかなり当たった気がする。

 特にⅡ章の校内研修の組み方は読みごたえがあった。

 指導者にそこらへんの校長なんて呼んではいけない。授業を十年も二十年もしていない者にいったいどんな指導ができるというのだ

 多くの授業後の協議会では、司会が案(組み立て)の問題なのか、対応の問題なのか、整理できない。だから協議会などする意味がない

 気持ちいいほどのバッサリである。
 こうした大胆な発言は、明晰な頭脳、蓄えられた理論と確かな目によって形を成していることは間違いない。
 従って、非常に緻密な戦略を練ってしたたかに対応している場面も多い。Ⅳ章以降の「体制」「連携」「組織」といった点で随所に表れる。そのまま校長の現職教育論としても有効であろう。

 しかし、なんといっても惹かれる?大森氏の持ち味は、教委職員に対しても「お前じゃ話にならん」とか「何ならお前が来てやってみろ!」と叫びたてる過激な正論!である。読んでいるだけでも小気味いい。
 最後に、大森氏が式の話を嫌がるという実に人間らしい?エピソードが出てきたところも微笑ましい。

 結構堪能できた本であった。
(と、内容よりも痛快さに感じいっている読み方は問題ありか、と最後に自省)

初動から何を汲み取れるか

2007年09月07日 | 読書
 休日に立ち寄った書店で見慣れない言葉がある背表紙を見つけた。

 『感動の初動教育法』(田中真澄著 ばるす出版)

 手頃な厚みの本だったので購入して読んでみる。
 
 肝心の「初動教育法」の明確な定義は本文中に文章としてはでてこないが、読み終えて見直した表紙裏のスローガンが、その意味を表すといってもいいようだ。

 最初の授業に全力をつくす
 教育は、新学期の最初の日、夏・冬休み明けの始業式直後、週明け一時限目、毎朝出会いの瞬間に、どう授業を始めるかで教育効果は決まる

 著者の田中氏はヒューマンスキル研究所所長の肩書きを持つ、職業講演家ということである。
 本の内容は田中氏本人の実践ということではなく、親交のある小学校教諭平光雄氏の実践の紹介に多くのページが割かれている。

 教職歴が数年でもあれば、「最初が肝心」の重要さは誰しも自覚しているに違いない。その自覚をどう実行に写せるかが教師の力量の一部(かなり大きな部分を占めているように思うのだが)であることは間違いなく、その面で参考になる「紙芝居」(提示する絵資料)と「語り」が豊富に紹介されている。
 また、学童期の子どもがとらえやすい言葉を選んでキーワード化を図ったり、警句を「暗号」という形で提示したり、様々なアイデアにあふれている。
 
 こうした平氏に強く感心している田中氏は講演のプロとして次のことを書いている。

 人に話をする場合、最も重要なことは、聴き手に「この人の話は面白い」と感じさせることです。二番目が「ためになる話をする人です」なのです。決してこの逆ではありません。

 私も含めて教員の多くは「そうは言っても…」と言いたくなる言葉である。
 しかし効果的な教育実践の多くは、やはり「引き込むこと」いまふうに言えば「ツカミ」を抜きには成立していないようだ。この点はもっとアナウンスされていい。ツカミの手法は一時間だけでなく、一日、学期、年間の導入時それぞれの段階で、検討されるべきだと思う。

 その観点では極めてわかりやすく、真似てみたい気にさせられる実践が載っている本だったと言えよう。
 ただ「初動」と限定するには惜しいだけの豊富な要素が、この平氏にはあるように見えた。

 わがままを取り去ることが、この子たちの本当の幸せの道につながる

 そう述べる平氏本人が日々の中で子どもにどう声かけされているのか、そんなことも若い教員なら興味も湧くだろう。保護者へのアピールなども詳しいが、実際子どもにどんな学習技能を培っているのか、目標達成の意識化を継続させていくための具体的な工夫など、知ってみたいことが多く浮かんできた。

 そういう意味でもう一歩突っ込んだ内容の出版を期待したい。
 しかしまた、本書の内容から汲み取ろうとする読み方もあるだろう、それも教師の醍醐味ではないかなどという思いも同時に浮かんできた。

コスモスに心をうつす

2007年09月06日 | 教育ノート
 学区ではコスモスを地域の象徴としてとらえ、沿道に苗を植えたり、その名前をつけた各種の催しを行ったりしている。
 昨年そのメインとなる「花まつり」会場へ子どもたちの短歌を掲示してもらえるように頼んだら大歓迎され、また当日は参加者に大変喜んでいただいたという。
 継続的な形で短歌作りを奨めてきたので、その際も自習時間など活用できるようにプリントを作成して全員分を掲示できるようにした。

 今年は一学期中あまり取り組んでこなかったが、この機会にぜひと思い、4年以上の合同授業という形で取り組むことになった。
 小学生であれば素直に気持ちなどを31文字に読み込めればいいと思うのだが、「コスモス」という限定があるので、どうしても風景の短文のように終わってしまう傾向があったのが昨年の反省である。

 具体的に手順を踏みながら作り方を教えたいと思い構想を練っているとき、俳句には「取り合わせ」という技法があるが短歌でもそんなイメージでできないものだろうか、と考えた。
 つまり、自分の行動、思いなどとコスモスのある景色などを結びつけてみるという作り方である。
 具体的にどう進めたかは、いずれ何らかの形でまとめたいと思う。

 小学生にとっては少し背伸びをした印象であったが、なかなかさまになる作品もできたと感じている。
 いくつか紹介する。

 晴れた日のコスモスラインきれいだな練習試合勝ててよかった (4年)
 コスモスもきれいな星をみてるかな楽しかったよプラネタリウム(4年)
 コスモスが笑顔いっぱい咲いているあいさつするぞ元気におはよう(5年)
 コスモスがはちと一緒に話してる思ったことをきちんと言えたよ(5年)
 つぼみでもこれから咲こうと日々がんばる新しい曲チューバで吹くよ(6年)
 コスモスも楽しみながらおどってるチャンゴの音色ひびきわたるよ(6年)