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自分で自分を承認できるために

2007年09月05日 | 教育ノート
 ほめることの重要性は言うまでもないが、それを他との比較で語れなくてはならない。昨年は職場の中で「無視すること」の意味についても話したことがある。
 多様な言葉かけの意味について考えることが求められている。これは生活指導だけでなく、授業でもそうだと思う。

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縷述「つながる授業」23

 「ありがとう」 「うれしい」 「助かる」
 
 夏休みに行われた県学校保健研究大会で講演なさった八巻秀秋田大学教授が、「こころの健康を保つ」ために、とても有効だとして紹介した三つの言葉かけでした。
 これは「元気づけ・勇気づけ」をテーマとするアドラー心理学の中で取り上げられている言葉のようです。
 日曜日に秋田市で行われた「学校におけるカウンセリングを考える会」公開講演会で、講師である曽山和彦名城大学准教授も使われていました。
 この講演会もなるほどと納得することが多くありましたが、学校現場で考えてみたいこととして、その三つの言葉が出てきた部分に一番興味を覚えました。曽山先生はこんなことを仰いました。

「子どもがゴミを自分から拾ったことに対して『えらい』『すごい』と誉めてきたが、誉めることには落とし穴がある」

 教師にほめる対象として取り上げられたことによって、人の目を気にするようになる危険性もあるということでした。この点については私たちも十分経験していることではないでしょうか。

「ほめる言葉は、上から下に対する言葉だ」
 
 それに比べて、上の三つの言葉は平行な関係に使えるということになります。「~~してくれて、ありがとう」といった言葉かけの方が、より安定して使えるということでしょうか。
 しかし、それらの言葉でも毎回使っていくと、そこにあるパワーは失われていくでしょう。この点もありがちなことです。
 その時はどうするか。曽山先生は、こんなふうに言いました。

「事実だけを言う」
 
 この言葉を聞いてストンと落ちました。
 つまり「ゴミを拾ってくれたのか。えらいねえ」→「ゴミを拾ってくれて、ありがとう」→「ゴミを拾ってくれたんだね」…この三つの段階は、他立・他律から自立・自律へのステップを見事に踏んでいるのです。価値の内面化を図るともいえそうです。
 承認欲求は誰しもあるわけですが、子どもからみれば、それは周囲の大人からの評価、仲間からの評価、自分自身による評価というように区分されます。最終的に自分で価値ある言動をとれるためには、レベルを徐々に上げていく必要があるのでしょう。
 
 小学校、特に初期段階における教師や親の評価の影響の大きさは、心理学でもよく指摘されます。従ってほめ言葉を多様に身につけ駆使していくことは必須な仕事ですが、同時に、学級の実態や個々をみながら対応していく言葉かけの大切さに気づかされました。
(9/5)
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気づきを待つ姿

2007年09月03日 | 雑記帳
 「学校におけるカウンセリングを考える会」主催の公開講演会に参加した。
 講師は曽山和彦先生(名城大学准教授)である。
 曽山先生は、この春まで秋田にいらして学校教育や教育行政に携わっていた方である。以前にも何度かお話を聴いたことがあった。

 「あたたかな関係づくり~子ども、保護者、教師が元気になるために~」と題された会だったので、集まった顔ぶれは十代からおそらく七十代まで、職種なども様々のように想像された。
 「元気な姿とは?」からスタートしたお話は、元気のない現状、その理由、そしてどうすればよいか、という流れで専門であるグループエンカウンターの演習などを交えながらの2時間強であった。

 曽山先生の語り口は実にソフトであるが、それは単に音声的な部分ではない。今回改めて気づいたのだが、演習場面で時間指定をしたときであっても曽山先生は「やめてください」という言葉を使わない。
 その演習に夢中になっているグループがあっても、声を出して制しようとしない。合図は確かに送っているが、にこにこと見守っていることが多い。
 少し収まったような頃を見計らって「結構です」「だいたい伝え終わりましたか」とそんな言葉かけをしている。

 本人の気づきを待つ姿

 それをこのような全体的な研修の場でも徹底されているのだなと思った。
 以前受けた講義で、エンカウンターの実技をしたあとのシェアリングでひたすらに発言を待つ姿を、驚きの目で見つめた記憶がある。
 そうした行動を自分に課せば簡単にできるかと言えば、そうではあるまい。これは強い信念と繰り返された経験に裏打ちされている。

 講演の最後に、教えている大学生の中に「演習が嫌いな学生がいる」という話があった。書いてある通りにやればできるから必要ない、教職についたらできるはず、という言い方をするが、実は人とのかかわりを避けているらしい。
 このような学生に対しても、おそらく曽山先生は待ちの姿で対応するだろう。息の長い取り組みが要求されることだが、けして強制でない威圧的でもないその語りと行動で、内面を見つめさせていく姿勢を貫いていかれるだろう。

変えていく意志を示す

2007年09月02日 | 読書
 『教師・保護者・子どもの「意識」を変えるメッセージ』(吉永順一著 明治図書)を読んだ。

 この本は三章に分かれているが、四分の三ほどが「教師向け通信」になっている。ということは、この本は吉永氏にとっては、「第二の『現場感覚』」といってもいいはずである。

 『現場感覚』とは吉永氏が海浦小にいたときの校長通信のタイトルである。
学校版ポートフォリオ『進潮』の連続発行で名を知られることになった海浦小の、研究推進を引っ張っていく校長の強烈な主張が出ている冊子だった。

 吉永氏が転任した鏡西部小での校長通信となろうが、改めて『現場感覚』と比べてみると、少しおとなしいかなという印象を持つ。対象とする職員が違うということもありかなり似た内容も入っていた。しかし、机上論ではなく常に子どもと世の中を見据えているという点にぶれはない。

 それにしても、なぜそんなに書くか、である。
 そして、どうしてそんなに読めるかである。

 一学期終業式の子どもたちへの挨拶が載っていたが、子どもたちの前で自分の目標の一つとして「休み中の読書100冊宣言」である。恐れ入った。
 この夏20冊にも届かなかった自分など恥じ入るばかりである。

 校長として自らの考えや思いを「書く」ということに慎重な人もいるだろう。
 メリットばかりとは言えないこともある。周囲に対する配慮も必要だ。
 おそらくそんなことを承知しながらそれでも書き続けられるのは、それ以上にインプットも大きいからだ。行動し、読書し、人と出会い…そのエッセンスを文章にして伝えていくことを通して、吉永氏は自らを高め奮い立たせようとしているのかもしれない。

 『現場感覚』にもこの本にも幾度となく、その名前が登場する徳永康起先生の話。こうした優れた先達のことを書きながら、自らの身体にその考えを叩き込んでいくような印象を持つ。
 したがって、章名は「教師向け通信で教師の『意識』を変える」となっているが、そしてもちろん職員の意識を変えていくきっかけになろうが、本当のところは自分の意識を変えていく意志を示すためではないだろうか。
 書き続けることはその証しである。

マ、ネタ、クセ

2007年09月01日 | 読書
 『伝える力』(池上 彰著 PHPビジネス文庫)に、こういう文章がある。

 一流の落語家は、とりわけ間のとり方が見事です。一瞬止めて、間合いをとったかと思うと、また立て板に水のごとく話を続けます。

 当然そうだよなと、ともすれば軽く受けとめがちな内容だが、しゃべることを仕事の一つにしている者にとってはこの事実は結構重いはずである。
 特に小学校の学級担任は多くの場合、結構長い期間にわたって限定された対象に向かってしゃべるわけだから、聞いている方が無意識のうちに構えを作ってくれるとも言えよう。それは学級では安定している面もあるが、普遍的とは言いがたいことだ。話し方を鍛えるためにことさら意識的になる必要がある。

 
 ビジネス誌の連載に、蟹瀬誠一氏が紹介したことばが、ああいいなあと感じた。
 落語の演題もネタという言い方をするが、それを楽屋ではこう書くそうである。

 根多

 「多くの演題を知り、広く深く芸の根をはらなければ」ならないからである。
 教育現場でも、「教材」が「ネタ」と称されることがある。
 このネタも「根多」であることが望ましい。
 授業が根を多く張っていく。そして学級に知的な根がはりめぐらされる。そのための材料として教材があることを改めて思う。


 同じビジネス誌のインタビュー記事に笑福亭鶴瓶が取り上げられていた。
 バラエティばかりでなく、新境地の落語を切り開いている一人である。
 「将来を考えた仕事の仕方」といった問いに対して、次の言葉を挙げたことが、なんとも落語家らしい?言い回しであった。

 癖をつけるということも大事ですね。

 ここでは「自分でお金を出す」ということを例にしていたが、行動全般に当てはまると感じた。
 教員生活を長く続けていると、自らを棚上げしながらも、見えてくることがある。
 子どもへの声かけを怠らない人、身銭をきって学ぼうとする人、ささいな変化も見逃さずに対処する人…みんな良い癖をつけてきたのだと思う。
 習慣という言い方もあるが、癖という言葉は泥臭さがあるだけにより日常に密着した振る舞いを感じさせる。