すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

難点に立つということ

2009年08月04日 | 読書
 時々でいいから、自分の仕事や生活について俯瞰してみることでポジションを確かめておきたいと考える。
 その意味で難解さはあったが、刺激的であり、かつ示唆的な本だった。

 『日本の難点』(宮台真司著 幻冬舎新書)

 五章だての構成からなる本書は、「これ以上はあり得ないというほど、噛み砕いて書かれています」と著者は書いているが、私などには十分に厄介である。
 承知しつつ、第二章「教育をどうするか~若者論・教育論」は特に興味を持って読み進めた。結果、著者の的確な分析によるメッセージは十分に熱く伝わってきた。

 もちろん「いじめ」「モンスターペアレンツ」「ゆとり教育」「人の死」「早期教育」…取り上げられた話題に対する即効薬が示されている文章ではないが、繰り返されるカギカッコ付きの言葉は現実打開のために、私たちの心に注入すべきエネルギーに違いない。曰く

 「本気」「感染」 そして「摸倣」「包摂」
 
 戦略的であることの重要性は繰り返し述べられ、それゆえ政策や社会設計に向ける目も厳しく、著者は自らの立場を明確に示している。
 その論に対する賛否を自分の中ではっきりさせることが、ポジションそのものかもしれない。そうでない者は、変動の激しい筒箱の中であちらこちらに踊らされているだけといっていいだろう。

 学校現場に務める者は、子どもにとって間違いなく「重要な他者」であり、「社会的包摂」を施す存在であることに異論はない。
 卑近のことばかりに目を奪われないように在らねばならない意義を、何度も思い起こすべきなのだ。

夢でもし逢えたら

2009年08月03日 | 読書
 勝手に師匠の一人と決めている糸井重里が、こんな本を出していることを申し訳ないが全然知らなかった。

 『夢で会いましょう』(村上春樹・糸井重里著 講談社文庫)
 
 もう二十年以上も前の発刊である。内容はカタカナの外来語をテーマにショートショートを競作?しているもので、エッセイ風のものあり、言葉遊び的文章あり、シュールな寓話ありと、私のような集中力のない者にはうってつけと言ってもいい。

 興味深いのは、お互いをテーマにした部分。
 「シゲサト・イトイ」はm(村上)によってこう称された。

 天才的祝祭転換人

 日常空間を祝祭空間に劇的に変える、またその逆の転換を、明快に行う人物と見ている。

 一方「ハルキ・ムラカミ」をi(糸井)はこんなふうに形容する。

 旅人の役で、鉄道模型セットのどこかにいそうな雰囲気

 そしてその巨大な鉄道模型の中で旅をし、いつの間にか別のプラットフォームに立って汽車を待っている、と。

 なかなか深いなあと思う。

 正直、何を延べているのか示しているのか、わからない頁も多く、師匠や大御所の文章には知識がないとついていけないかとやや落ち込んだのも確かだ。
 しかし結局、この題名が示すように、もしかしたらベッドで眠る前に読んだら、夢になるようなストーリーだということでいいだろう。そこで何を感じるかは、読み手に任せられるような本といってしまおう。

 と、先週月曜、露天風呂につかりながら読んだのでした。見上げた先には、おだやかな唐津の海が広がり、夢心地でもありました。

日曜日の吉田修一

2009年08月02日 | 読書
 先週日曜の旅行先は長崎。
 吉田修一の文庫本を読もうと決めていた。長崎出身の作家という単純な理由からである。

 『日曜日たち』(吉田修一著 講談社文庫)

 別に長崎が舞台となっているわけではなかったが、連作短編集という構成も登場する人物もなかなか興味深く、ぽんと読みふけってしまった。

 全篇を読み終わって、ふと思い浮かんだのが「食べ物」のこと。それぞれに何か効果的に意味づけられているような気がした。
 しかし改めてめくり直すと、それほど重くもないようだ。ただ自分がそう感じたわけは、冒頭作の「日曜日のエレベーター」で主人公がした質問、そしてそれに答えた恋人の返答が大きいんだなと確かめられた。
 それはこういうものだ。

 「この世で一番嫌いな場所はどこ?」
 「デパートの地下食料品市場」

 どうして好きになれないのかと問うと、その恋人は「あそこにいる人たちが、みんな何か食べることを考えているのかと思うとぞっとするのよ」と答える。

 うーん、さすがの目のつけどころである。
 食べ物を見つめる、食べている人を見つめるシーンがかなり深いのは様々な作品でも語られるところだが、その心理を追いかけることで真実は見えてくる。

 そうしたところで、長崎まで行ってデパ地下で買い物をした私はどんな心理なの、どんな状況なのと、日曜日の吉田修一は語りかけてくる。

上向きの比喩を見つけよ

2009年08月01日 | 読書
 『1分で大切なことを伝える技術』(斎藤孝著 PHP新書) 

 久々の齋藤孝本である。
 本屋では少し立ち読みをするが、食傷気味というところもあって、しばらく読んでいなかったと思う。今回は「1分」に惹かれて思わず購入した。

 内容に入る前に、まず「まえがき」の冒頭の一文に立ち止まる。

 言葉は、チャンスだ。
 
 いかにも著者らしく断言的で歯切れのいい文章である。
 この比喩はなかなか考えるに値する。
 その中身というよりも、こうした修辞の仕方について、こんなふうに考えた。
 
 比喩は、心の向きだ。


 つまり「言葉は、ピンチだ。」と書いて論を進めることもあるだろうし、「言葉は、案山子だ。」と書いてみてもよい。その比喩に従って論を進めていくことは可能だろう。
 著者ゆえに、その比喩は快活に響く。だから次のことがその文章からイメージされる。

 言葉は、チャンスになる。
 言葉の使い方によってチャンスが訪れる。
 言葉によってチャンスをつかむことができる。
 言葉の使い方そのものが、チャンスのつかみ方なのだ。

 そういう強さを感じさせる見事な比喩だ。

 では、「言葉は案山子だ」はどうだろう。

 言葉は、案山子になることがある。言葉の使い方によって、そこにいるだけのモノになる。当初は多少の役割は果たすけれど、その存在は日々薄くなっていく。言葉はいつも同じだとあまり役に立たない…

 上向きの比喩を見つけよ。