すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

正直さと懸命さと混乱と

2010年10月19日 | 読書
 今映画で話題になっている『悪人』の単行本を数年前に読んでから、吉田修一はお気に入り作家の一人になった。
 何ヶ月かに一回は必ず文庫本を買い求めていたが、今回ようやくデビュー作にたどりついた。古本屋で初刊本を見つけた。

 『最後の息子』(文藝春秋)  

 「最後の息子」「破片」「Water」という三篇が収録されていた。
 標題作は同性愛者と暮らす「ぼく」が主人公の話であり、Waterの登場人物にも少しその香りをさせた表現がある。

 正直、感覚的になじめずナンダカナアと消化しきれずにいたとき、たまたま録画していた映画「メゾン・ド・ヒミコ」を観て、何かがつながった気がした。

 http://himiko-movie.com/
 
 結局はこういうことではないか。

 自分の気持ちに正直に、そして懸命に生きなさい 

 知ったかぶりを承知で言えば、生きづらさを抱えるマイノリティーを本当に理解するためには、どういう形であれその世界に飛び込む?ことが求められる。
 その場で何かに同調し、何かに反発しながらも、自らの心に正直に生きてきた、生きようとする相手の姿を認めることができるのではないだろうか。

 きっと正直さも懸命さも、多数派よりずっとずっと高いところにあり、それゆえ物語があり、感動があるのだと思う。

 「最後の息子」には『春、バーニーズで』(文春文庫)という続編がある。
 実は先月そちらを先に読み終えてしまって、やはり何かしっくりこなかったが、「最後の息子」を読んだ後に再読してみたら、これがまたはっきりとキャラクターが伝わってきて面白かった。
 主人公が、かつての同棲相手である「その人」に、こんなことを言う場面がある。

 「こいつには、俺の息子のこいつにはさ、今のうちから、いろんなこと、混乱させといてやりたいんだ」

 なるほど、小出しの混乱は結構いい人生体験だなと思った。

 さて、正直さや懸命さはそれを突き詰めれば、必ず混乱をまき起こす…この齢になればもはや自明である。
 仕事であれ、恋愛であれ、それは同じだろう。若ければ余計である。
 しかし、誰もその混乱の価値を否定できはしない。

 だからこそ、眩しい世界でもある。

新型、恐るるにたらず

2010年10月18日 | 雑記帳
 去年の今頃のメモを見ていたら、「新型インフルエンザ」のことが頻繁に書かれていた。

 濃厚接触者、マスク着用…毎日のように、いろいろと話をした記憶がある。
 本校で最初の「学級閉鎖」という処置をとったのが、10/22。それからどうにか学習発表会は実施したもの、二カ月近く悩まされたと記憶している。
 学期末のPTAでは確か二学年が閉鎖していた。

 今となってみれば、そんなに大騒ぎするべきだったのか、と思うこともあるが、将来もし毒性の強い新型が出現し、流行が心配された場合のいい前例にはなったはずだ。いずれにしろ、その記録や記憶を粗末にはできないと思う。

 ところで「新型」というえば、何気なく見ていたテレビニュースで「新型うつの増加」といったことが言われていた。
 簡単に言うと「仕事に気がのらない、休日はいいのだが…」ということらしい。検索してみると、ずいぶん以前からそういう言葉はあるのだという。

 なんでも「うつ」と言えば通用するのか、と声を出したい気持ちもするが、それはさておき「新型」というのは便利だなあと改めて思う。
 よく考えると「何が新しいのか」「どの部分がどの程度新しいのか」ということを、はっきりするべきで、なんでもその言葉で括るのは考えものだろう。
 「新型うつ」でも、こんなサイトがあるのでわかりやすい。
 http://heartland.geocities.jp/singatautu/

 そもそも「新型」とは、まったく新しいということを指すわけではないんだなあ、と改めて思う。
 もし、まったく違うものであれば、それなりに命名すべきだし、言ってみれば、それまでの橋渡し的な役割を果たしたり、代名詞的に使われたりということだろう。
 
 名づけられていないと安心しないから、「新型」と言って取りあえず仲間分けをしておいて、そこからどう動いていくかは、その新しい部分がどう使われていくか、にかかっていくわけです。
 新型○○と銘打ちながら、そのまま旧型になるものもあるわけですよ。

 うーん、自分自身としては納得できる。
 なんだか、去年のことからずいぶんと離れてしまった。

父親力の正体が見える

2010年10月17日 | 読書

 『父親力』(正高信男 中公新書)

 ちょうど去年の今頃に、こんな記事を書いていた。

 「二人目の母親」でいいのか

 ここで読んだ正高氏の文章のもとになった新書だろうと思う。
 2002年に発刊された本だが、実に興味深く読んだ。

 特に「父親の話はあまり登場しない」とされた前半の二章が面白かった。

 第一章 記憶の起源~「はじめての記憶」から子どもの発達を考える
 第二章 「死を看取る」ことの意義
 
 第一章冒頭の、著者が調査した「いちばん古い記憶」についての学生と高齢者の結果比較が実に納得でき、かつ考えさせられる。
 「人はいやなことを覚えている」からヘビへの恐怖感、そして仲間から判断の基準を学ぶという「社会的参照」までの件は、なるほどの連続であった。

 第二章は、記憶の分類が出てきて、多少知っていたことではあったが、それが子どもの成長とどう結びつくのか、これも納得させらた。

 それ以降の章においても、「相手の笑いを先取りする笑いの発達へ」といった、ふだん自分がよく感じている事柄についての論考もあり、読みどころ満載だったといってもいい。

 肝心の「父親力」についての必要性は、多くの人が語ることに近いと思われるが、これだけ理論づけられれば、本当に納得いや身にしみる、ということだ。

 反省を促す著である。いまさら、ではあるけれど。


プライド、その二重の意味

2010年10月16日 | 読書
 『プライド 処世術2』(藤原和博 新潮社)

 10年前の発刊。
 10年後の今、この本で著者が語っていること、特に教育現場へ踏み出したこと、そしてその場で自らの構想を多く実現したことには敬意を表する。さすがの突破力だなと思う。もちろん、もうこの時点で着々と策は練られていた。

 「10年先への“志”と“いま”との関係」という項があるが、それを忠実に実行して取り組んだのだろう。
 10年後の志について1割取り込んで今を生きるというのは具体的だが、やはりそこには強烈な願いや持続力、工夫が不可欠だと思う。
 かけ声ばかりで実際に進めない自分のもどかしさは、パッションの違いかなあなどと少し落ち込むが、それはそれとして発想を学ぶべきと切り替える。

 唐突に思いついた。

 延長線と補助線を引いてみる

 自分が今いる現在を、一定の「線」の結果として表すことは可能だけれど、それだけで止まるのではなくこの先どこへ行くのかを漠然と考えずに線として実際に伸ばしてみること。
 自分の考えや思いは様々な方向で線づけされるけど、それを交わらせたり、包括させたり、分割させたりするという思考を持って、線として書きこんでみること。

 自分の思考はどちらかといえば羅列的であったり、拡散的であったりする。それを融合、集中的にする方向に持っていくべきではないか…同年代の著者の言葉は、そんなふうに響いた。

 この本の中で一番感動的なのは、第Ⅰ章「義理の父への『弔辞』」だった。
 癌治療の権威であった義父の生死を見つめ、最後の決断の難しさを実に人間っぽく描いた。
 人間はそんなに潔くなれない。
 そこも含めて処世術なのだろう。その姿を潔く見せた。

 延長線や補助線のように思えるものも、時にはぐらつき、曲がったりする。それはなかなか自分では見えないものだ。

 何が「プライド」なのか、なぜプライドなのか。
 プライドの二重の意味にその答があるような気もする。

 最後に自分を立たせるもの、それは「誇り」なのか、「思い上がり」なのか。
 自分で意味づけるしかない。

少年譜に記される存在

2010年10月15日 | 読書
 『少年譜』(伊集院静 文藝春秋) 

 七編の短編小説集。どの作品にも主人公や重要人物の少年期が描かれ、現在に通じているところが共通している。
 帯には「少年小説集」という言葉が添えられているが、そういう形容が妥当なものかどうか。
 いずれにしても、少年が乗り越えた「厳しい道程」が描かれており、その雰囲気はまさしく伊集院ワールドなのである。

 冒頭に置かれた標題作「少年譜 笛の音」は、年譜的な構成が強調されていて、いわば立身出世物語でもあるのだが、その抑えた筆致が印象を残す。

 個人的には「古備前」「親方と神様」の二作品がいい感じである。

 「古備前」は、著者が通いそうな銀座の寿司屋が舞台である。
 寡黙な主人イサムは小学校時代に、高価な壺を壊し周囲からの冷たい目に晒されるが、その時言い放つ校長の一言に救われる。

 「この学校には子供がこわして困るようなものは何ひとつ置いてありません」

 そしてこの言葉は、主人の始めた店に置かれた古備前に対して向けられる言葉にもなる…

 「親方と神様」の舞台は鍛冶屋である。
 鍛冶屋の仕事を見つめる少年の目が熱い。
 「鍛冶の仕事には何ひとつ無駄なもんはない。とにかく丁寧に仕事をやっていけ」という親方の言葉が心に迫る。
 地道で寡黙な男の持つ強靭さが少年の心を育てるのは、いつの時代も同じだろう。
 ここにも一箇所だけ教師が姿を見せ、その仕事の尊さを説く場があった。

 どの大人にも少年譜がある。
 小説ではなくてとも、そして影響の大小にかかわらず、そこに教師の登場する頻度は結構あるのかなと考えたりする。

 肩に手を添えたり、背中を軽く押したりしてちょっとでも顔が見えたりする存在であれば、仕事冥利につきるだろうなと素直に思う。

なつかしい学校は今ここに

2010年10月14日 | 雑記帳
 職場の会議室の書棚を眺めていたら、ちょっと古めの緑の小冊子があったので手にとってみた。

 『我が村』と題されて、本校の名前が記されている。
 奥付をみると、なっ、なんと昭和十一年とあるではないか。

 丁寧な装丁がされ中は写真入りで、歴史や現況、活動、社会生活、各種資料などがまとめられている。当時を知る資料としてはかなり貴重ではないかと、わくわくしながらページをめくった。

 しばし読みふけった後で、もう一度「はしがき」をめくってみたら、少し違和感のある表現があった。

 三輪村!こゝは私どもの生れたところ、私どもの育つたところ…(中略)…私どもにとつて此所程なつかしいところはありません。 

 「なつかしい」という箇所である。
 都会に住む人に向けて書いた文章ではないはずだし、ちょっと変ではないか。
 普通「懐古」「懐郷」といった意味で「なつかしい」は使われるはずだが、昭和だから古語ではないでしょ、…と思って調べてみると、明鏡辞典では確かに「過去のことを思い出して~」「久しぶりに会ったり~」という意味のみであった。

 しかし、広辞苑をみると、「思い出されてしたわしい」という意味は第4番目。最後ではないか。
 ネットのgoo辞書も、それと同様だった。
 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/164186/m0u/

 第一義としては「そばについていたい」「心ひかれる」ということが出てくる。古語としての使い方とは言い切れないだろう。

 語源では「懐古・懐郷」といった使い方は中世から出ているというし、ふだん我々が使うとなれば、もっぱらそちらの方だ思う。

 しかし「なつく」という言葉から形容詞になったものだとすれば、それは、今目の前にあるもの、ごく身近なものであっても何ら不思議はない。むしろ、そちらの意味の方がぴったりくると言えまいか。

 昭和前期にはまだ古語が残っていたというべきか、いや「なつかしい」はそういう意味でもつかわれ続けてもいいんだよ、というべきか、少しわからないままだ。

 それにしても、時々、一年生が隣接する保育園を見ながら「なつかしい!」などということがあるが、いったいどちらの意味でとればいいのか、笑って済まされなくなったなあ、これは。

 教育目標を「なつかしい学校」にしてみたらどうだろうか…そんなことを、少し本気で考えてみる。

吐けば、いいのだ

2010年10月13日 | 読書
 『呼吸の本』(加藤俊朗・谷川俊太郎 サンガ)
 
 呼吸法には少し興味を持っていて、他にも何冊か読んだことがある。
 共通して言えるのは「リラックス」ということであるが、この本は中でもずいぶんとリラックスしている。

 谷川氏が質問し加藤氏が答えるという形で構成されていて、きわめて素人っぽく質問していることが一つの理由である。
 そしてそれ以上に加藤氏が「独断でね、偏見あるよ」とか「違うかもしれません」「間違っていたらごめんなさい」とさらっと答えているところが、いい感じである。

 運動習慣があまり身に付かない自分なので、呼吸法ぐらい身につけたいという野望!がある。そういう目でこの類の本を読んでいると、共通している重要なことがいくつかあることに気づく。

 「丹田」「イメージする重要性」そして「吐く」こと。

 特に「吐く」ことについて、この本では強く語っている部分がある。

 吐いてください。
 出し惜しみしないで思い切って吐き切ってください。
 吐ききった分量だけ入ってきます。
 この感覚を養ってください。この感覚です。
 
 そこに丹田も、イメージもかかわってくることになる。従って最重要なのは「吐く」。

 「波動」「気」は一般的に知られているが、「言霊ゼーション」という一見怪しげな表現もあり、そういうことにアレルギーを持つ方にはなんだかなあと感じるかもしれない。

 しかし要は、自分の心、身体…意識、感覚を前向きにするための方法であり、そのための焦点化である。
 「吐く」ことによって、肩の力を抜く時間を少しでも続けて持つきっかけになればいいと思う。

ユーモアを求める野暮

2010年10月12日 | 読書
 『ユーモアのレッスン』(外山滋比古 中公新書)
 
 こんな文章があった。

 明治のはじめ、そして、この間の大戦のあと、外来文化のおびただしい流入があったため、よい意味での閉鎖性が破れ、〝野暮〟な社会になったのは否めません。
  
 この本の内容は外山氏らしく外国のことが多くなっているが、イギリスの「アイランド・フォーム」という流れから当然我が国のことにも触れられる。そこで出てきた表現だが、ふと先日見た、NHKの夜の番組で爆笑問題が「落語」について扱ったことと重なった。

 落語が扱う江戸の文化は、いい加減なことが多い。
 悪事も死も、話にしてしまえばそれで良しとされることが圧倒的である。人間が抱える醜さ、弱さに同化し、それらを笑い飛ばすような…立川談志風に言うと「業の肯定」ということだろうか。

 制度や論理にあくせくして縛られ、それはそれでと笑い飛ばすことを忘れてしまっている…そんなふうにこの国の社会、文化が形づくられてきたのは明らかだ。

 自分が生きてきた時代を振り返ってみても、笑いで済まされていたことが「笑い事じゃない」ときつい顔で言及されている。数え上げればなんと多いことか。
 「野暮じゃないか」と言って済ませたいことも少なくない。

 そして、誰しも心の中でそんな思いを抱えていながら、口に出すことが憚られ、別の何かにはけ口を求めている気がする。この文章も現にそのものなんだから。

 「ユーモア」の本を読みながら、何か深刻になってしまったのも余裕のなさの表れか。

 でも、申告したかったのです。(苦)

鳴るために歌う人

2010年10月11日 | 雑記帳
 雑誌ダ・ヴィンチが、また中島みゆきの特集をした。前から何年経ったろうか。
 対談相手は、かの糸井重里だとある。これもまた同様だ。
 読まねばなるまい。

 中島みゆきの「赤ん坊って鳴ってません?」という問いかけに、
 糸井は「赤ん坊の鳴りと歌とは、本来一緒なんです」とまとめる。

 中島みゆきは、きっと「鳴る」ために歌っている。そんな気がする。鳴るために、唄を作っている。
 言葉は大事なことだが、それを一つ越えた段階で何かを伝えようという思いが強くなければ、アーティストとは呼べない。
 
 ああ、『命の別名』が聴きたい。
 とここで、youtube 検索。

 http://www.youtube.com/watch?v=fpC6exFNnRk

 歌詞は誰かに阿るためのものではない。ある意味の「出まかせ」かもしれない。だから、次のような語りは実に格好いい。

 何かを失ったから、何かを得られるような、見返りを期待しないところから世界は開けるんじゃないですか。
 見返り以上のものを信じることができれば、失うことは些細な絶望でしかないんじゃないですか。
 
 「見返り以上のもの」…いくら言葉の大切さを信じても、それだけでは語れない何かを感じる。
 自分が対象に感じ入って、自分の方法で鳴るということかもしれない。

ハンコの跡が教えてくれる

2010年10月10日 | 読書
 『大人の表現術』(中島孝志 主婦の友社)
 
 ビジネス書の一つであるからもっともだとも言えるが、それにしても「表現術」と命名してある本の冒頭に引用されていた言葉は意外だったし、得心もした。

 「ハンコには心が現れる」
 
 自分には、契約という意味でのハンコを押す仕事はほとんどない。しかし決裁ということであれば、結構あるほうかもしれない。
 けして多い数とは言えないが、慣れていない分だけ少しでも数が多くなると雑になってしまう、そういうだらしなさが自分には確かにある。
 他人が押印したものに対して口に出さないまでも結構批評めいた目で見ていることもある。
 そういう些細なことに気づかされた表現だ。
 つまり、どういう意味のハンコかを考えているのか、と。

 著者が言いたいことの大半がそこに表れている気がした。
 それは、「術」を支えているのは一回一回の丁寧さであること、心遣いを反映させることが術なのだ、ということ。

 術とは効果を上げるために用いるわけで、もちろんたくさん身につけた方がいいに決まっている。しかし、「術に溺れる」という表現があるように、単なる目先の損得や効率だけでは、結局響くものにはならない。

 ハンコと同列に「あて名書き」などについても触れられている。様々な機器に頼るのはもはや仕方ない時代である。だからこそ、何で「伝える」かという焦点化をはっきりし、具体化することは怠ることはできない。

 大勢に伝える表現術は一人に伝える表現術とは違うだろう。
 しかし、結局は一人ひとりだとハンコの跡が教えてくれる。