すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

寄り道、まわり道を充実させる

2011年10月17日 | 読書
 『不思議なノート法』(きこ書房)と題された本を見てみたら、それは「マインド・マップ」のことについて書かれたものだった。

 なんとなく名前だけは知っていたが、実際に自分で試したりしたことはなかった。

 以前、「ウェビング」という手法もあったなあ、どう違うんだろう…などとぼんやり考えていて、研修や授業に使える方法についてもうちょっと勉強してもいいんじゃないかという気になった。

 検索したら、独立行政法人の教員研修センターから、こんな冊子が出ていた。
 http://www.nctd.go.jp/pdf1/tebiki.pdf

 かなりよくまとめられている。
 しかし現場で使いこなすには、リードする方の学習、そして計画性、見通しが必要なのだろうなと思う。

 とりあえず、マインド・マップとウェビングについて調べてみる。

 共通点は、どちらも課題を分析、分類する手法として区分されていること。
 自分としては拡散的なイメージを持っていて、どちらかといえば創造的思考を高めるものととらえていたが、肝心なのは、その過程を通しての気づきや作成後の分析ということなのかな。

 大きな違いがはっきりした。
 マインド・マップは「広げる」、ウェビングは「つなぐ、結ぶ」が、主たる概念だということ。
 どちらも拡散性、関連性を色濃く打ち出しているが、双方は思考の流れが違うのだ。

 だから、ウェビングが「チームで思考を広げていくのが特徴」ということも言える。
 マインド・マップは絵も使える点が柔軟であり、より感覚的にとらえられるだろう。

 いずれにしても、最適解への最短距離を目指した学習や研修が、あまり流行らなくなっていて、「寄り道」や「まわり道」の充実が強調されていると強引にまとめることができる、か?

 スムーズに参加できるために必要なことを、あれこれ考える。

分かりやすく、分かれ目だった

2011年10月15日 | 雑記帳
 再放送
 「北の国から」
 見ています


 上條晴夫先生の模擬授業における一つの定番「五七五作文」の、二つ目の問い「テレビ番組では何が好きですか」に、そう答えた。

 BSフジで、初回シリーズが三ヶ月ほど前から放送されている。
 かつて「北の国からフリーク」を自称していたが、実をあかせば、この肝心の初回シリーズは最初から見ていない。
 昭和55年秋からの放送である。

 それは初任地の教員住宅で、僕が二度目の冬を迎えようとしたときだった(ここは純くんのナレーター風で)。

 そういう時期であり、へき地二級地の小中併設校でドラマと似たような暮らし?をしていた自分は、見逃していたわけだ。
 その後のシリーズでドラマの流れの大体は理解していたが、改めてじっくりみると、当時の風俗は実に面白いし、倉本總がなぜこのドラマを書き始めたかもダイレクトに伝わってくるような気がした。

 このシリーズの前半部で存在感を感じさせてくれるのは、なんといっても大友柳太郎だ。
 「笠松のじいさん」役は、北国の貧しい田舎の象徴のようにも思う。貧困のなかでなんとか生活の場を切り拓き、徐々に便利になっていく日々。年老いていくに従って偏屈さを増すのは人の常だが、厳しい現実の中で働いてこなければならなかった屈折した感情が、心を覆っている。だから、表面的な付き合いを上手くこなすことができないのだ。

 昔はこんな年寄りがいっぱいいたなあ…自分に近い何人かの顔が思い浮かぶ。

 「なぜ、電気を引かん」とじいさんが五郎に詰め寄るシーンは、自分たちが求めてきたものを根底から覆されることへの驚きだ。
 そして「馬」への愛着と別れは、人間と自然との関係そのものと言っても過言ではないだろう。

 分かりやすいシンプルなドラマだと思ってしまう。
 また、そういう時代だった。
 そして、そのあたりが分かれ目だったとも思う。

ほめてくれよ、George

2011年10月14日 | 雑記帳
 ネットニュースを見ていたら、柳ジョージの訃報が載っていた。

 えっと思った。お気に入りのシンガーの一人だ。
 全てのアルバムを持っているわけではないが、時々無性にあの渋い歌声が聴きたくなることがある。

 一度だけ、レイニーウッドのステージを観たことがあった。
 強い印象が残っている。

 名前が知れ渡ってヒット曲もあった80年代の前半だったと思う。近くの市にやってくるというので、チケットを買い求めた。
 当日、コンサートが始まって『雨に泣いている』など続けざまにシングル化されたヒットが3曲演奏される。

 なんで最初からこんなに流行っているのばかり続けるんだろう、という思いが出てきたとき、ジョージが口を開いた。

 「実は、喉にポリープができて手術をしなければならなくなった。しばらくステージができない。みんなに逢いたくてやってきたが、今日はあと一曲で勘弁してほしい。今日のチケットで替わりのコンサートを入ってもらい、存分に歌うから…」

 そんな話をして、最後の演奏に入っていった。
 たった4曲だったけれど、エネルギッシュな音とともに誠実さがよく伝わってきた記憶がある。

 全国ツアーを待っていたファンの気持ちに精一杯応えようとするプロの心意気が感じられた。
 残念ながら再演には行けなかったが、十分すぎるほどのシーンを見せてもらった気がする。

 好きな曲はいくつもあるが、一つだけと言えば、月並みだけど『青い瞳のステラ、1962年夏…』になるだろうか。


 ♪ほめてくれよ、しゃがれた声で
  芝生の下で 眠っていずに
  ほめてくれよ、BlueEyes細めて
  芝生の下で 眠っていずに♪



 この詞がやけに沁みる夜となった。
 この後も長く聴き続けるシンガーだと思う。合掌。

エクセルの手習いから学ぶこと

2011年10月13日 | 雑記帳
 Excelというともっぱら名簿や日程表作成に使っていたものだから、表計算に関しては全く手を出していなかった。
 まあその必要もなかったので当然ながら知識ゼロである。

 ところが、とある仕事で、これは計算できたら便利だろう(電卓じゃあ何時間かかるだろう)という状態になり、挑戦してみることにした。

 しかし、マニュアル本を探すのも面倒、検索して方法を見てもナンノコトヤラと、あまりにも自分の忍耐力、理解力のなさにあきれる始末である。
 そこで同僚にヘルプ!ということで、必要な計算式の入れ方とコピー、貼り付けなどを習う。

 表の中で二度三度繰り返してみると、うーん快適快適…と一歩前進した気になったのだが…。

 実は半端なことに簡単な「合計」の出し方を知っていて、数値化していたことが災いして、表の数値をいじったことによって合計の数値が狂ってしまった。
 わぁー、どうすればいい…先ほど習った同僚は既に退勤している。

 仕方なく「もとへ戻る」を繰り返して、合計値を元にもどし、どこかへコピーさせて貼り付ける作戦に出た。これも単純ではなく「形式を指定」があることに、やってみてから気づく。

 そんなことやらなんやらで、おぼつかない操作でなんとかその仕事は二日がかりで終了した。

 PCを使い初めてもう十数年経つが、機器・性能はどんどん進化しているのに、使っている当人は本当に微々たる歩みだなあとつくづく思う。
 Excelの計算には手は出さなくともいいだろうと思ってきて、きっとこの後も頻繁にするわけではないだろうから、この経験は生きないかもしれないが、二つばかりの教訓を拾い上げることができる。

 一つは、まず全体像を描くということだ。
 これは文書や名簿等をつくるとき、初めに教えてくれた人が手書きでざっと形を描くことを奨めてくれた。その大切さは何度も感じたし、その表に計算が入るとその重みはぐんと増す。
 個々の値が全て関わり合ってデータを成す、Excelはその点が徹底する。

 もう一つは、半端な知識はかえって活動の邪魔をするということだ。
 全体像とむろん関わりがあり、形としてどうなるかと共に操作として何が必要かを把握してやらないと(必要な技を知っているということ)、混乱を招くもとになる。足し算ばかりで済むならばそれはそれでいいが、それ以上拡がらないのも寂しい気がする。

 Excelの手習いから学ぶことは、様々な場でも適用されることだと今さらながらに思った。

秋味をとる

2011年10月11日 | 雑記帳
 この連休は三日間とも、近くの山や林へ出かけた。
 いずれもほんのわずかな時間だったが、いいリフレッシュとなった。
 
 初日は、前夜に宴会があったので車を取りに向かった足で、そのままいつもの茸ポイントへ向かった。
 天気予報では雲はかからないはずだったが、30分ほどしたらどういうわけか小雨となり、引き返そうと車に入ったとたんに豪雨となった。ほんの少しだが初収穫なので、まあいいか。

 二日目、町のスポーツイベントに顔を出そうと出かけようとしたら、車のバッテリーがあがってしまい、代替の車で行くことに…。
 イベントに参加していてもそのことが気になって自宅へ戻り、なんとか処理できた。
 そのまま家人と一緒に、これも毎年の栗ポイントへ向かう。
 ずいぶんと車が停められており、賑わっている。
 今年はちょっと小ぶりのようだし、まだ木の上で青々と茂っているものが多い。
 しかし、まあ程々の収穫がある。

 最終日。天気が崩れなかったので、もう一つの茸ポイントを目指す。
 今年は、茸の不作が伝えられていたが、やはりそうかもしれない。
 色鮮やかな毒キノコさえあまり見られない。
 二箇所目で、ほんのちょっぴりお目当てを見つけたので、これも良しとせねばなるまい。
 素人がそんなに多くを求めてもいけないし、いい気分転換であればいいではないか。
 
 青空、稲穂がけされている田んぼ、少し赤くなりかけている木々、枯れかけながらもしぶとい藪…色が充満している景色と匂いは、やはりこの季節独特だ。
 ビールの銘柄ではないが、「秋味」がたまらないという気分になる。

 写真に留めたのはわずか数枚だが、今年はこの後、もう少し意識して撮りたい。

 秋味をとる。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-6a28.html

「つけたい」と一括りすること

2011年10月10日 | 雑記帳
 とある会で、知り合いに尋ねられた。

 「『つけたい力』ってどういうこと?」

 話題は、つけたい力が何かということでなく、「つけたい」という表現そのものの意味するところらしい。
 学習指導案にもよく書かれている表現だし、資料や冊子などにも出てくるような気がする。それでもそんなに以前から使われていたっけかなあ…。
  
 単純に考えると、学校の場で「つけたい」というと、「教えたい」「高めたい」「育てたい」と同義だろうし、「子どもに、身につけさせたい」と言い替えてもいいことだろう。
 なんとなく口語的な感覚で使っているのかもしれない。

 と、そんな軽口めいた話をした。

 一人になって、いや、しかし待てよ、と少し考える。
 「つけたい」は「つけさせたい」とは違う
 ここは学校によくありがちな、主客転倒?混合か?
 また「教えたい」と「育てたい」という「教育」の本道を、「つけたい」なんていう言葉と一緒にしていいのか、という気になってくる。

 「つけたい力」の主語や対象を補えば、「教師(学校)が、子どもに、つけたい力」となる。
 この場合の「つける」とは、広辞苑ではここの意味になるのだろうか。

 ④身にまといつける
 (1)身にまとう
 (2)わがものとする


 どうもしっくりこない。

 明鏡国語辞典を調べる。この意味は結構妥当かもしれない。

 ⑤(本体に付加する形で)そのものの状態や性質を新たに生じさせる。また増強させた状態で生じさせる

 それにしても改めて「つける」を調べ直すと、「つけたい力」という表現は間違ってはいないが、あまりふさわしいとは言えない気がしてきた。

 一つには、「つけたい」が「力」と結びつくと、やはり自分や自分側からの向きの言葉だととらえられる。教師の主導性が強くイメージされる。つけるという動作に関わるのだろう。

 もう一つは、明鏡の意味と結びつけて、もっと細かく検討されるべきという思いがある。つまり「新しい」か「継続的」かを明確にして語るべきではないか、と考える。

 「つけたい」で一括りにすることは、怠慢と言えるかもしれない。

もう一度、危機感を見つめなおして

2011年10月08日 | 雑記帳
 似たようなことを数年前にも上條氏の口から聞かされた気がする。
 今の授業づくりをより大きな視野でとらえると、このような危機感があるということだ。

 いつまでも昔通りの「教科書に書いてあるような価値のあること」を「順序よく」「わかりやすく教える」教え方ばかりしていても、正直、国は沈んでいくだけだろうとおもいます。

 漠然としたそういう思いは、多くの教師の胸のどこかにあるだろうと思う。
 がしかし、日々の諸問題に煩わされている現状のなかでは、いかに教科書のことを順序よくわかりやすく教えるかに腐心することで精一杯という教員も少なくない。

 ただ、決して大袈裟ではなく、その果てにどんなことが待ちうけるか、やはり考えねばならない時代だろう。
 それは制度的な施策でこの国や地域をリードしていく人材育成を目指すといった点も欠かせないが、それ以上に、ごく普通の教室で学び育つ子がどんな力に身につけて、社会を築き生き抜くかという点に関わりあってくるのではないか。

 「学力は、幸せをつくる力」と郷土の大先輩が仰った。
 その観点で、目の前の子どもたちが生きる時代の「幸せ」はどんなイメージなのかを挙げてみることは必要かもしれない。
 しかし、ある特定のイメージを挙げるというより大事なのは、以前に比べて多種多様な姿が現れてくるということだ。

 いわば最適解・一般解のない世界、特殊解・個別解が強調されるなかで生きることは間違いない。反面、それらが自己満足の肥大に陥ることを注意深く見つめる必要はあろう。

 そうすれば、子どもたちの幸せのために自ずと養いたい力は浮かびあがってくるのではないか。
 そしてそのための手法については、けしてひと通りではないし、またそうであってはいけない。

 教える内容、育てたい力そのもの吟味と共に、具体的な教師の手法が、子どもたちに伝えるものの大きさは見過ごすことができないのである。

 全体的な視野でいえば、上條氏がいうところの「バランス」責任論、つまりは一斉型授業の見直し、指導形態の比率改善ということも当てはまる。
 ただそれと同等に、個々の教師自身の営みに自信が戻って?くることが要求されるのではないか。それこそ肝心だ。
 先日の講座で言えば「足場」の大切さということにつながる。

 上條氏はオランダの教育、教師の素晴らしさについて触れた文章(メールマガジン)で、こんな締めくくりをしている。

 自分の目でものを見、自分の頭でものを考える。

 「教育は人なり」は、やはり普遍だと思う。

「黙って」「座って」が妨げるもの

2011年10月07日 | 雑記帳
 火曜日に本校の1年生活科の授業研究会があった。
 その授業を参観しながらそして研究協議の途中にも、もう20年も前に生活科が新設されるとき、ちょうど初めて一年生を担任することになった自分には、いくつか思い浮かんでくることがあった。

 教科書のこと、動物飼育のことといった内容面と同時にその学習活動のあり方が大きく問われた時期だった。

 つまり「座学からの脱却」というような言葉で、かの中野某先生が盛んにその自由度の高さを力説したことを覚えている。
 その結果がどうだったのか、様々な研究はされたのだと思うが、明確な方向は示されたのだったろうか。不勉強ゆえに見逃しているかもしれないが、何か「高学年になっても授業がしにくくなった」といった印象的な言辞だけが流布されたような気もする。


 昨日の木曜日、東北福祉大の上條晴夫先生をお迎えしての講演会を実施した。
 氏は、授業づくりネットワークが現在推進している「学びのしかけ」のリーダーである。そこで語られる「『教えやすさ』と『学びやすさ』」に注目している。

 上條氏は「黙って」「座って」を従来型の授業、そして教師の「教えやすさ」をつくるルールだと言う。
 もちろん、それを全面的に否定しているわけではない。しかしこの「二大ルール」の堅固さをどうにか突き崩したいという思いは強いようである。
 生活科の新設も、総合的な学習の時間の創設も、活動においてはこの二大ルールを揺らがせるまでは至らなかったということだろうか。

 年代や個人の性格にもよると思うが、教師は授業を通じて自己表現したいという気持ちが強いのではないかと仮定してみる。少なくとも自分にはその要素がある。
 従来型の授業を続けているということは、その表現のバリェーションが少ないのだと言いきってしまうことができないだろうか。

 印象的な場面がある。
 教育技術学会だったろうか、確か秋田で催された研修会だった。法則化運動が盛り上がっていた時期である。
 地元で著名な教師が国語の授業をした。その詳細は思い出せないが、導入で教師がしたことは強烈だった。
 教師に常に正対させるということを、自分の場所を変えながら練習させたのである。

 この意図は…紛れもなく「私を見ろ、私の話をしっかり聴くことが大切だ」でしかない。
 若干の怖さも感じながら、その堂々たる自信を身につけて子どもに向きあいたいという気持ちもないわけではなかった。
 その授業の良し悪しはともかく、教師の持つそのエネルギーは確実に伝わるし、他者とのコミュニケーション以上に学ぶ意欲が引き出され、活動的な場になる可能性は大いにある。
 しかし、しかし、という思いは残る。

 「黙って」「座って」を子どもにルールとして示し徹底させる理由は粗く二つあると考える
 一つは「人の話は口をはさまず聞く」という社会的なマナーや一般生活の中で頻度が比較的高い状況に対応する力を身につけるということ。
 そして、二つ目はその状態が教えるべき価値や内容を効率的に、もしくは意図的に伝えやすいとされていること。

 後者について、本当にその状態がいいかどうか吟味することが求められているのである。惰性的にその形態を使ってはいないだろうか。
 「黙って」「座って」が安定した形で汎用性が高いことは確かに認めるが、その吟味に向かわなければ、授業者の自己表現のバリェーションはいつまでも拡がらない。

言葉との距離に敏感になる

2011年10月05日 | 読書
 けして都会に住みたいと考えているわけではないが、都会生活者が羨ましいと思うときが何度かある。
 その一つは、東京辺りに住んでいたら演劇や落語をいつでも気軽に観られるだろうなあという思い(幻想かもしれないが)が湧いてくるときだ。

 『名セリフ!』(鴻上尚史 ちくま文庫)

 その思いが益々つのってしまうような本だ。
 芝居などをみるのは好きだが、けして詳しいわけではないので、解説の恩田睦が書くように「戯曲の入門書としてこの上ない」本書は、ぴたりとはまった気がする。

 名セリフを名セリフとして意識できることは、それなりの観劇キャリアが必要なわけだが、そうでない者にとっても楽しめる内容だった。
 しかし知識や経験があれば、もっとびしびしと伝わってくるだろうなあと、口惜しさを捨てきれないのは、それも内容が魅力的からこそだろう。

 俳優論に触れている部分があり、こんなことが記されている。

 言葉に敏感な人とは、つまりは、言葉と自分自身の距離に敏感な人のことです。

 うまい俳優は、「言葉との距離」に敏感な俳優だという。どんな言葉もきちんと「喋れる」俳優などいるわけがなく、名優とはその距離を敏感に感じ取る俳優だというのだ。
 実に深い気がする。
 平凡と思っていた俳優が名演技を見せた時のことや、役者のタイプなどについてもちょっと考えさせられる。


 さて、「言葉との距離に敏感になる」ことは、教育の仕事にとっても大切なことではないか。
 具体と抽象、建前と本音、理想と現実、目的と行動…すべてが二分化された世界とは言わないが、教育現場にあふれる言葉を拾い上げてみたとき、鈍感にそれらを発していないかと反省させられる。

 また、言葉の遣い手を育てることは、学校教育の大きな目標の一つと言える。そのまま教師自身に当てはめてみれば、どのくらい達成できているのか、つまり敏感になれているか。内なる検証は必要なのである。

 著者はその方法についても語っている。

 観察と試行錯誤。

カラス記念日

2011年10月04日 | 雑記帳
 今朝の新聞に、こんな見出しの記事が載った。

 カラス 数がわかります
 人の思考と同じ可能性


 カラスの生態に関する研究を続けている宇都宮大学農学部のグループが、餌を使った実験でカラスが数の大小を認識できることを解明した、とある。

 カラスが頭がいいということは、かなり知られている印象がある。ゴミのあさり方などを見ても気づくことがあるし、なんとなく世の人々は「こいつらは他の鳥や動物と違うぞ」といったイメージを持っているのではないか。自分も確かにそうだ。

 しかし、実際にそういう場面を見たのか、というと、どうもテレビ番組でたまたま見かけたり、人づてに聞いたりしただけなのかもしれない。ところが…。


 先週土曜日、PTA研修があったので学校へ出向き顔を出した。
 その帰りに学校の玄関に来たとき、駐車場付近で(その日はほとんど職員車がなかった)、カラスが急降下を繰り返しているではないか。

 なんだろうと思って、近づいてみた。

 降下したあとに、何かを啄んでいる様子も見える。
 小動物の死骸かなと思ったが、そうではなくて、クルミ(オニグルミというのかな)のようだ。

 あっ、そういえば聞いたことがある。
 カラスがクルミを割るという話だ。

 口ばしで器用にくわえながら、上昇し一定の高さのところで反転、クルミを離して落下させ、自分も急降下。割れたかどうか確かめている。

 さすがだねカラスくん、と思わずつぶやきたくなった。

 興味がわいて帰宅してすぐにネットで調べてみると、様々なページがある。
 「カラス研究室」が特に面白かった。
 http://homepage3.nifty.com/shibalabo/crow/brain/brain.htm

 2007年作成のページだが、今日の新聞記事は、ここに載せられている事項が科学的証明される一歩となったということなのだと思う。

 カラスに替わってお礼を言いたい。
 (何のことでしょう)

 それにしてもある出来事を実際にこの目で見ることは、知的な関心をぐっと高めてくれるものだなと改めて思う。

 今頃かい、とクルミをくわえたカラスは笑っているに違いない。