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判断の拠り所

2013年04月07日 | 読書
 『偽善エコロジー』(武田邦彦 幻冬舎新書)

 著者の講演を昨年秋に聴いた。
 実に興味深く感じたので,こんなタイトルでメモを残しておいた。

 「子どものことはどうでもいい国」


 改めて書籍になったものを読むと,今までの自分の「環境生活」が正しかったのか,誰かに誘導されているに過ぎないのか,本当に迷ってしまう。

 氏が独自のデータを出して,いわゆる「公的データ」と対決?してみせることの意義は大きいと思う。少なくともエコロジーという庶民のほとんどが疑問を持たない考え方が,けして一通りではない多様な姿があることを見せつけてくれている。

 自分でもいくらかの知識があった「割りばし」や「レジ袋」などのことから,ちょっと驚きのダイオキシンやリサイクルのことなど,いわゆる「常識」がひっくりかえされそうな話題が次々とあった。

 その真偽は例えばネット上であっても追究できることがあるかもしれない。ただ,おそらく膨大な時間と内容があることを考えれば,一つ一つ調べてみることに対しては尻込みしてしまう。そういう態度がこのような(国やマスコミの情報を鵜呑みにする)態度の素地なのだろうが,正直仕方ないことだ。


 しかし,氏が語ることの中に,自分が判断していくうえでのとても大切な警句をいくつか拾うことができる。

 有害かどうかは物質ではなく量で決まる

 言われてみれば当然のことであるが,実際私たちの意識はどう動いているだろう。
 震災の瓦礫受け入れに対して,少なくない人が放射能汚染を口にしたときに感じたのは「物質」そのものがあることだったように思う。実際はどこでもあるものなのに。
 タバコの副流煙の話題なども似ている気がする。

 日本語で呼ばずに英語で呼んでいるものに,ろくなものはありません。

 これは何も環境問題だけではない。教育問題だって十分ありえる。
 本質は何かということ。なぜ英語なのか考えることはずいぶんと意味がある。きわめて真面目に新しい発想の普及のためだったとしても,その裏に何があるのか…そんなに時間をかけなくとも見えてくるものは多い。

 読みどころはたくさんあったが,まずはここに挙げた二つの拠り所をしっかり持っているだけでも,かなり判断できるのではないか。