すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

既知やら未知やらさえずり

2013年04月16日 | 雑記帳
 通勤時に聴くラジオ番組で脱メタボのコーナーがあった。出演した専門家が語ったコツは…。メタボを育てた生活習慣を止めるのは難しいが「別のものに替える」こと。新しく始めようとするためには「ついでにする」こと。そして同じ目的の「仲間をもつ」こと。これは須らく「改善の原則」だなあと感じた。


 PTA総会では紹介DVDもあったので、挨拶は4分程度。先週「ほぼ日」に掲載された「今日のダーリン」からさすがと思った二つの言葉を紹介した。挙げられた言葉は「人なのだ」と「ミックス」。まさに本質をついている。そこから始め子供たちの「少し不便な生活」の大切さに結びつけたがどうだったか。


 学校報に「ウィークリークイズ」と題して地域や季節ネタを載せている。18日は「よい歯の日」。歯のことを調べていて、人間の歯の総数が32本はわかったが「同数の歯を持つ動物」なんて考えてみたこともなかった。さて皆さん。犬、猫、牛、豚、山羊、象、鼠、猪…このうち二つの動物が同じ。さあどれ?


 珍しく国語のことを考えていたら「単元」という言葉が気になった。意味はもちろんわかるのだが、この熟語のでき方はなんだろう。「単」が「ひとまとまり」であるのは確かだ。しかし「元」とは何だ。大漢和を開いてみると「あたま」「はじめ」「もと」…ううん、ぴんとこない。もしかしたら「大きい」?

花粉症何するものぞ,と

2013年04月15日 | 雑記帳
 先週金曜日に聴いた講演は、教育哲学に関する内容で正直理解するのが難しかった。ただ演題にあった「第三者の利他主義」という言葉には考えさせられた。利他というと「ケア」つまり気遣いや配慮を考えるが、「懲罰」も社会集団の中で利他主義と解釈されるのは、言われてみれば当然とはいえ不思議な感覚だ。


 同じ金曜日、グループ協議で一緒になった先生が、今年度初めて小学校に着任され「毎日が楽しくて楽しくて」と仰った。そうかもしれない。おそらく中学の過酷な現場から移れば、小学校はさぞかし和やかに感ずることだろう。しかし楽しさの質は何なのか、もっと掘り下げてみれば面白いと後から気がついた。


 明日のPTA総会のために、学校と職員の紹介ビデオを作ってみた。毎回、話ばかりでなく変化を持たせ、楽しむ要素も必要だ。今回職員には「プチ自慢」を聞き、それで構成したらなかなかシャープな仕上がり。しかし機器につないでみると音割れ、画面の文字欠けがあり、結局やり直し。やはり時間がかかる。


 「花粉症何するものぞ」という意気で、数多く花見に出かけようと密かに決意した。最初の訪問地は、以前から観光スポットとして注目されている福島市花見山。さすがに人出は凄かった。しかしこの山が個人所有という驚き以上に、その価値を支える人々、便乗儲けを考える人…本当に色様々の人模様だった。

 写真アップしました。
   ↓
  http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/1-bd60.html

旧さ,堅さからの脱却

2013年04月13日 | 読書
 自分は教職という仕事の何に力を注いできたかと顧みたとき、「校内研修」は間違いなくかなり上位にランクされると思う。
 本県教員の年齢層のいびつさということもあり、確か勤務三校目、三十歳になったばかりのときに研究主任という役割が回ってきた。翌年に公開研を控えていた。

 中身はともかく面白かったなあと振り返られる。5年間同一校でその役目を担ったが、若さもあったがたぶんその時が一番エネルギッシュに働けた記憶がある。時代の風も吹いていた。

 『笑顔と対話があふれる校内研修』(石川晋・大野睦仁 学事出版)

 さて、この新著を読んでつくづく感じるのは、自分の旧い体質である。
 今までの研修会参加や読書などによって、書かれてある内容についてはだいたいわかる。体験していることも少なくない。
 ただ、それを最近の勤務校で取り入れられるようにしてきたか、というとその評価は正直3割どまりだ。

 総じてみると、結構似ていることはしてきている。
 通信活動しかり、付箋等を使った協議しかり、ストップモーション検討、ミニ講座、そして研究提案準備や推進手法など…それでもなお自分が旧いと思わされるのは、それらの手の広げ方における根本的な姿勢の自然さ、柔らかさを著者お二人から強く感じるゆえだろう。

 そして、継続しきれないままにある意味苛立っている自分の堅さも突き付けられる。

 最初にマーカーで引いた文章は、P11にあるこの部分だった。

 互いの「異質性」を理解し、「越境」を認め合う職場づくりが、最終的な「同僚性」「一体感」を生むのではと考えていたのです。

 ここがこの本の核となっている部分だろう。同様の文章は後半にも記されている。
 そしておそらくこの部分は、研修づくりだけではなく、授業づくり、子どもたちとの学びづくりと軌を一にしているのは間違いない。
 学びは自分の中に成立するものだが、学びは自分だけのためにあるものではないという思想だ。

 ここに記されている、教師の新しい学びのスタイルは間違いなく有益だろう。
 今まで自分に出来たことを大事にしつつ深めるという構えで、あとは若干出来る範囲を広げるために、二、三手を掛けられそうなことに挑戦してみようと思う。

命を預け合うということ

2013年04月11日 | 読書
 冬山登山をする人の気持ちを理解できない。
 いや、1パーセントぐらいは可能か……。
 それはきっと極限の中での生命の輝きに魅せられるのではないか。その光を求めて、あえて厳しい場所へ、ぎりぎりの線にできるだけ近づいていくイメージではないか。

 わずか半径何十メートルの世界で山菜採りをしているだけの男が、いくら言葉を並べても説得力はないことはわかっているのだが。


 『銀狼王』(熊谷達也 集英社文庫)

 作者の書く狩猟モノを待ち焦がれていた。文庫で見つけたので即購入。
 さすがにデビュー作の『ウエンカムイの爪』や『邂逅の森』などの「森」シリーズには及ばないが、やはりこのジャンルが一番ぴったりくると思わせる出来である。

 蝦夷地開拓の時期に、生き残っていた巨大な体躯の狼にたった一人で戦いを挑む漁師の話。
 野生の狼を追い詰めていく過程、そして意外な展開後に追い詰められていくクライマックス…一人だけの物語は、その猟師の視点で貫かれているが、回想や独り言癖も巧みに交えられて、読者をその猟の世界へ誘う。

 数年前読破した「森」シリーズは、ただただ面白くてページをめくっていたが、今回は何がこんなに狩猟モノにはまる原因だろうという思いが読んでいる途中にわいてきた。

 緊張感、躍動感、切迫感…こうした感覚はエンターテイメント小説では当然のことだろうが、主人公と対峙するのが野生の動物である話の強みはやはり命懸けということになるだろう。

 今回もクライマックスにおける主人公の猟師の胸中の叫びはこうだ。

 好きに喰うがいい!

 狼ともつれ合うなど想像もできない場面ではある。
 それを極限と言わずして、何を極限と呼べると言うのか。
 自らの左腕を喰わせたままに、右腕で首を締め上げる人間の生命の輝きは、何もたとえようがないのかもしれない。

 狩猟を扱うドラマの核はやはりそこか。

 解説の杉江由次という編集者?はこんな表現をしている。

 狩猟とは、おそらく生き物と命のやりとりをしているのではないだろう。命の預け合いをしているのだ。

 「命の預け合い」…読み流せない言葉である。

 そう考えると、狩猟だけでなく冬山登山も自らの命を対象に預ける覚悟があるからこそ、ある時とてつもなく輝いて見えるのかもしれない。

祝20周年…祝じゃないだろっ

2013年04月09日 | 雑記帳
 年度当初から不謹慎とは思えど、雨の日が嬉しい。

 同感の人も少なくないだろう。
 ザ・花粉症である。

 発症した日のことは今でも覚えている。
 その4月某日は、後日のニュースで「昨年飛散した全部と同じ量が、一日で飛散した」とされた日だった。
 一年生の下校指導があり何人かを引き連れ、徒歩で田んぼの多い道を歩いた。近くの低い山から吹き下ろす風もあったように思う。

 翌日、かゆみや頭痛が襲ってきた。
 花粉症デビューであることはすぐわかった。
 その日からの下校指導は、レインコートの襟をたて大きめのマスクをするという、いわば不審者ルックといういでたちであった。

 この格好で、可愛い一年生と町内を歩くのだから,ちょっと目が集まった記憶がある。

 それが、ちょうど20年前であることを、鼻水がたれてきて眠れない夜中にふと思い出した。

 ずいぶんと長い間悩まされてきたものだ。


 そういえば…と思いだしたのもちょうど10年前のこと。

 2月上旬から4週間ほどの中央研修があった。つくばの研修センターだった。始まって一週間ほど経ったころから花粉症らしき症状が出た。
 確かに2月も中旬を過ぎると、関東だったら場所によってはあり得ると納得。私以外にもぽつぽつとマスク姿も見えるが、本当にわずかだ。
 やはり自分は重症なのだろうなあ。

 講座等が続くときに夜眠られないのはきつい。
 もちろん目薬、点鼻薬などは常備しているが、ますますきつくなる一方だった。
 一週間ほど朦朧とした感じで頑張ってみたが、どうにも我慢がならない。

 そこで、かねてより目をつけておいた!宿泊棟の階ごとに設けられている談話室にある空気清浄機を、夜中に独占させてもらう作戦に出ることにした。
 夜、皆さんが寝静まってからそろそろと借用に出かけ、起きたらすぐ返すということで…と勝手にルールを作り、部屋に持ち込むことにした。
 寝静まった廊下を、寝間着姿でこそこそと空気清浄機を運びこんだ。

 その効果はというと…、作動音は結構するが、その音が花粉をぐんぐん吸ってくれる(ようなイメージな)ので、ぐんと睡眠が深くなった気がした。
 もちろん日中のかゆみなどは続いたが、その日からなんとか真面目な研修へと立ち直ることができた。

 書いてみると、結構笑える記憶ではある。

 それにしても祝20周年、いや苦節20年。
 いつまで続くのか。
 まだ身体は枯れていない証拠と思うことも可能だが、どうにも酷い日が続く。

新しいモノをおそれず取り込む

2013年04月08日 | 雑記帳
 ツラノカワハアツイダロウ…と言われそうだが、お肌は敏感で普通の安全カミソリなどでは、すぐ血がにじんでしまう。
 それで、まずシェーバー、しかもすべりをよくするローションなどが必要…ということで朝の時間を過ごしてきた。

 シェーバーはもっぱら、かのB社か、もしくはPa社製が多く、特に考えたこともなかった。
 先日、二年ぐらい使用したPa社が壊れたので、買わなくちゃいけないなあと思いながら、古い型のB社で間に合わせていた。

 休日に大型店へ出かけたとき、そろそろと思いながら、そのコーナーへ。
 その時にふと、いつだったか知り合いとシェーバー談義?をしたことを思い出した。

 「Ph社のシェーバーはちょっと変わっていますよ」

 という言葉を覚えている。
 件のコーナーに並べられている製品の数は多くなかったが、Ph社のものも3種類ほど置いてあった。

 確かに刃の形状がBやPaとは全く違っているんだ、と興味が湧いてひとつ手を出してみるかという気になり、中程度の価格のものを購入してみた。

 翌日、充電してからスイッチを入れると、まず音が小さいことに驚かされる。
 今までの音が一般的と思っていたが、これはメーカーの特徴なのか。
 こんなんで剃れるものかなあと思いつつ、肌に当ててみるとそれなりにいいではないか。

 刃のかたちが違うことと当然関係深いだろう。
 単純に考えれば、モーターの回転数が少なくとも剃れる構造になっているか、刃の構造が音をあまりたてないようになっているかのどちらかではないか。

 詳しいメカニズムはわからないが、少し静かな気持ちで鏡をのぞけるのは、精神衛生上よろしい。

 と、別にPh社のシェーバーの宣伝をしたいわけではなく、今までにないものに手を出してみて、その違いについて考えることは大事だというしごくまともな経験を記してみた。

 年々、変化を嫌う体質に染まっていくような気がする。
 個人だけでなく、所属するいくつかの集団にあっても、その傾向がある。
 簡単なのは人そのものを替えることだ。といってもそれで変化が確実という保証もない。

 とすれば、次の一手、より確実なのは何か違うモノを持ちこむことではないか。廃棄や引退、抹消の機会があったら逃さず、新しいモノをおそれずに取り上げてみることは、思考の幅が広がるはずだ。

 そこで、簡単に新しいことに慣れてしまわずに、どこが違うか、どう違うか、それは何故かを問う習慣をつけたい。

 今朝、鏡を見ながらそんなふうに考えこみ、思わずシェーバーをちょっとずらしたら、「痛っ」ということになってしまった。
 考えすぎも良くないね。

判断の拠り所

2013年04月07日 | 読書
 『偽善エコロジー』(武田邦彦 幻冬舎新書)

 著者の講演を昨年秋に聴いた。
 実に興味深く感じたので,こんなタイトルでメモを残しておいた。

 「子どものことはどうでもいい国」


 改めて書籍になったものを読むと,今までの自分の「環境生活」が正しかったのか,誰かに誘導されているに過ぎないのか,本当に迷ってしまう。

 氏が独自のデータを出して,いわゆる「公的データ」と対決?してみせることの意義は大きいと思う。少なくともエコロジーという庶民のほとんどが疑問を持たない考え方が,けして一通りではない多様な姿があることを見せつけてくれている。

 自分でもいくらかの知識があった「割りばし」や「レジ袋」などのことから,ちょっと驚きのダイオキシンやリサイクルのことなど,いわゆる「常識」がひっくりかえされそうな話題が次々とあった。

 その真偽は例えばネット上であっても追究できることがあるかもしれない。ただ,おそらく膨大な時間と内容があることを考えれば,一つ一つ調べてみることに対しては尻込みしてしまう。そういう態度がこのような(国やマスコミの情報を鵜呑みにする)態度の素地なのだろうが,正直仕方ないことだ。


 しかし,氏が語ることの中に,自分が判断していくうえでのとても大切な警句をいくつか拾うことができる。

 有害かどうかは物質ではなく量で決まる

 言われてみれば当然のことであるが,実際私たちの意識はどう動いているだろう。
 震災の瓦礫受け入れに対して,少なくない人が放射能汚染を口にしたときに感じたのは「物質」そのものがあることだったように思う。実際はどこでもあるものなのに。
 タバコの副流煙の話題なども似ている気がする。

 日本語で呼ばずに英語で呼んでいるものに,ろくなものはありません。

 これは何も環境問題だけではない。教育問題だって十分ありえる。
 本質は何かということ。なぜ英語なのか考えることはずいぶんと意味がある。きわめて真面目に新しい発想の普及のためだったとしても,その裏に何があるのか…そんなに時間をかけなくとも見えてくるものは多い。

 読みどころはたくさんあったが,まずはここに挙げた二つの拠り所をしっかり持っているだけでも,かなり判断できるのではないか。

新年度のさえずり

2013年04月06日 | 雑記帳
新年度。いろいろな人の往来がある。出会いの印象度が強いのは、やはり「人相」だなあと思う。カメラを構えてスナップを撮ってみると、表情が動く人、そう動かない人では、確かに差がでる。他者へ多く働きかけようとしている人は笑顔が多く、そういう方の人相は良くなるのではなかろうか。一つの仮説だ。


始業式では「努力の壺」の話をした。小学校1年の子の作文をもとにした有名な話であるが、式のなかで話すのは初めてだった。人が何かしようと決意したとき、神様は「目に見えない」「大きさのわからない」壺を授けるという。入れ続ける大切さを説いてはみた。しかし自分は何か決意したかと思わず絶句。


若いふり?をして、サカナクションというバンドのアルバムを聴いている。テレビ番組主題歌から興味を持った。唄い方がAkeboshiに似ていたことがきっかけだ。独特の世界に最初ついていけなかったが、だんだんとリズムにはまるし、何より意味深なことばの世界があって、掘り出し物と出会った気になっている。


十日ほど前に思いついたこの140字メモ。なかなか面白いので、図に乗って、なんと学校報にコーナーを設けてみた。名づけて「Nikokibidon Tweet」。「にこきびどん」とは本校のスローガンである。ツィートはなんとなく「つぶやき」と思っていたが、調べると「小鳥のさえずり」なんだね。可愛くしなくちゃ。

目指すのは「智力」だ

2013年04月04日 | 読書
 五輪や世界大会に向かう「水泳日本」のコーチとして有名な平井伯昌氏が、雑誌連載に「智力」という言葉を取り上げている。

 直接的に「智力」という言葉の意味に言及しているわけではないが、こちらにとってはどうしても「知力」との比較が気になる。

 広辞苑、明鏡の二つの辞典にあたると、どちらも見出しとしては【知力(智力)】となっているので明確な違いはないという解釈だろうが。


 さて、子ども用の漢字辞典の「智」を見ると、意味として「知恵・頭にはたらき」が挙がっている。注目すべきは「人名」と記された区分だ。「常用」との違いがある。
 名前という欄には「あきら・さかし・さと・さとし・さとる……」とよく耳にする使われ方がある。


 では、「大漢和」や「常用字解」ではどうだろうかとめくってみる。

 後者では見出しとしては分かれておらず、「知」の解説に次のような比較が載っていた。

 知が主として「しる」と動詞に用いるのに対して、智は「ちえ、ちしき」と名詞的に使用する。

 そう言われれば、確かに「智」の方が、独立したイメージがある。
 八犬伝の影響もあるのかもしれない。人名に多いということも分かる。

 大漢和には、「智」が「会意兼形声文字で、知と同系のことば」としながら、微妙に表現を違わせている。

 知とは(中略)、矢のようにずばりとあてていうこと。
 智とは(中略)、ずばりといいあてて、さといこと。



 この二つの辞典からは、知は動作、智は存在といった大まかな違いが見えてくる。
 そうすれば「智力」というときは、「知る」ことの連続や工夫によって鍛えられた「知力」の集合的なイメージか。

 平井氏は「心技体」にプラスするものとして「智力」を掲げた。
 その結論は、こうである。

 智力を養う方法として、疑問を検証するクセをつけることが有効だ

 氏の考え方に添えば,本県教育のテーマ「問いを発する子どもの育成」は、いくらか限定的な見方にはなるが、そこで目指すのは「智力」であるということが出来る。

教育目標を調べ?なおす

2013年04月03日 | 読書
 本校の教育目標は、少し変わっている。
 いわゆる児童向けのスローガンをそのまま使う形である。

 「にこにこ」「きびきび」「どんどん」…昭和60年度に提示された言葉が引き継がれているのだ。

 昨年着任した者としては安易に手をつけられない歴史がある。
 それを生かして、またそれに付加してという姿勢で臨むのが妥当だろう(付加した文言についてはさておいて)。


 二年目の今年、始業式で使うネタ探しとして、そもそもこの三つの畳語の意味は…とふと気になり、久しぶりに『擬音・擬態語辞典』(講談社)を開いてみた。

 始業式の話ネタには結局使わないことにするが、調べたら結構面白いと感じたので、メモとして残しておく。

 「にこにこ」~人がうれしそうに微笑んでいる様子。

 類義語として「にこ」「にこっ」「にこり」との比較ができる。
 当然なことではあるが、今さらながらこの意味に納得する。

 「にこにこ」は、微笑みが反復されたり長く続いたりする


 「きびきび」~動作や態度などに、むだがなく引き締まって、生き生きしている様子

 古くからある「きびし」の語根を重ねて出来たと考えられ、それとの比較から導き出されたこの記述は、言葉の歴史的背景というものを考えさせられた。

 「きびきび」は近代的な感覚を表わす語と言える。


 「どんどん」~物事が停滞せず勢いに乗って進行する様子

 「どん」はもともと音から派生したものだろうから、よく使われているが、この比較はいろいろな場合に当てはめてみると、面白い解釈ができるのではないか。

 「どんどん」が意志の有無にかかわらないのに対して、「どしどし」は意志をもって積極的に推し進める様子。


 こう考えてみると、「にこにこ」「きびきび」は、そのまま意味を用いて適用できるが、「どんどん」はちょっと弱い気もする。
 しかしまた「どしどし」ではどこか語感が悪い。ここはドンドンと押していくイメージを強調するとすれば、それもまた可だろうという結論に達した。

 「どんどん」という語のカットには「おそ松くん」(!)が使われ、チビ太(!)がドアを強く思いきりたたく様子が描かれている。
 
 ノックするという動作は、確かに積極的ないい姿としてうつる。

 微笑みかけ、無駄なく動いて、誰かの胸をノックできるような日常を作っていこう。

 きれい過ぎるまとめになったか。