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すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

きりたんぽ妄想

2017年03月09日 | 雑記帳
 ちょっとした「きりたんぽ騒動」である。先週だったか、ネットを見ていて目の片隅に『サヨナラ、きりたんぽ』という文字が見えて「ふううんドラマか、AKBのあの娘ね、えっ阿部定!いいのかなあ」と一瞬頭をよぎったが、こんなふうになるとは予想もしなかった。もうすでにwikipediaでもページが出来ている。



 たいていの人が大まかには理解できる顛末だろうが、少し砕きたくなるのが我が性分。気の向くままに書き殴ってみよう。何が問題なのか。「題名」そのものの問題ではない。「サヨナラ」という語と食の名物が結びついただけでは、否定的という断定はできないし、話としても様々な展開が考えられる。妄想してみよう。


 『サヨナラ、きりたんぽ』…主人公は大館市に生まれ育った女子高校生M。名物きりたんぽ鍋を売り物にする食堂を営む祖父母と一緒に住んでいる。食への興味関心は旺盛で、将来は料理人を目指している。昔ながらの味に固執する大人たちへの反感は強く、高校卒業を待ちきれず都会への修業に旅立っていくが…。


 こんな導入かな…ってだいたい結末はしれているが。まあこんなNHK的「○○発ドラマ」であれば、「異議申し立て」どころか、こぞって応援していたのではないか。予告された内容がかつての猟奇的事件をモチーフとするプロモーションをしたこと、タイトルの語感や語の並びが局部を連想させたことが理由になる。


 なんといっても、テレビの連続ドラマのタイトルであることが大きい。これが地方劇団が公演する演劇であったり、都会の居酒屋のメニューの一つであったりしたら、苦笑程度で済むのではないか。その言葉自体を利用すれば、もしかしたら、「きりたんぽの新しい調理法」キャンペーンでも使えるかもしれない。


 もちろん憤慨している関係者を揶揄しているのではない。いわば「からかい」の対象になったのは、それほど浸透しているというとらえ方もある。複眼的思考を持たないと情報の海を泳ぎ切ることはできない。「ケンミン」を対象とする某有名番組など、見方によって地方蔑視、固定的観念の植え付けそのものではないか。

コミュニケーションの要

2017年03月08日 | 読書
Volume42

 印刷機器を作る会社から発行されている季刊誌は、毎号コミュニケーションをテーマにしたインタビューが冒頭記事である。
 いわゆるプロフェショナルたちの視点が面白い。



「楽譜があれば、歌ってみせたり、楽器を弾いてみせたりすることでコミュニケーションは成り立ちます。もちろん、言葉の方が細かなニュアンスは伝わりやすいですが必須ではありません」(ヴァイオリニスト 前橋汀子)

 何のためのコミュニケーションかということを考えさせる。
 目的さえはっきりしていれば、言葉は必須でなくなる。
 伝えやすい道具ではあるが、時々それだけに頼り大事なことを見失うときもある。


「一人で球(アイデア)を持ち続けることはNGです。とりあえず相手にパスを出し、パスを受けた者はさらにパスを出す。そんなパス回しの中から、どんな建築物にするのか、進化させていくわけです」(建築家 隈 研吾)

 設計のためのアイデアが、パス回しによって膨らみ、形を成していく過程を大切にすること。
 それは、何かを作り上げるコミュニケーションの典型である。
 関係性はパス回しの意識を持つことで深まる。


「厳しい環境の中で暮らしていると、昔の社会では当たり前だった客人を迎えたときの反応が自然とよみがえるのかもしれません。極地での生活には、私たちが忘れてしまっているコミュニティの原点があるような気がします」(植物整理生態学者  田邊優貴子)

 声を出して盛り上がる、手を振る、抱きつく…それらは日常でも時折見られる姿だが、南極等で研究に従事している方々が来客時に見せるそれらの行為は、身体の芯から発せられるものではなかろうか。
 人間は他者とつながりたいと願いながら、結局自分たちの作った何かに邪魔をされているとしか思えない。

ジャーナリストの本を読む

2017年03月07日 | 読書
 ジャーナルという語を調べると「日刊新聞・定期刊行物」という意味とともに、機械部品としての軸部分を指す用語が載っている。考えてみれば、私たちが毎日目にする新聞や雑誌、テレビなども、そんな役割を果たしている気がする。少なくとも時事的な関心は、そこに左右されている。ジャーナリズムの使命は重い。


2017読了22
『会えて、よかった』(黒田 清  三五館)


 伝説的な名物ジャーナリストと言ってよかろう。没して十数年になる。回数は少ないがテレビなどに出演したときの迫力は、今も目に残る。「読売新聞」という大手に所属していても、不正に対して挑む姿、そして世の中の弱いもの小さいものに目を向ける姿は一途だった。そんな人たちとの出会いを綴った一冊だった。



 、障害、難病、犯罪、在日、残留孤児、戦没者…様々な苦難に満ちた日々を過ごした方々とのふれあいから、それを一つのストーリーに仕立て、生き抜く素晴らしさを語っている。共通するのは「主人公」たちの強さであるが、それは裏返せば、その時代の(今も…)世間の差別がいかに根強いかを示していた。


 最終章に「勝ちゃんと別れたあの日」と題して、著者自身の同期との「刎頸の交わり」が綴られている。入社試験から別れの日までが淡々と記され、心に迫る。その友人は病床にありながらスクラップブックを作り続けた。その気力に、職業人としての矜持をみる。そういう軸を持つ者をジャーナリストと呼ぶのだと思う。

ほんの少しの差が…

2017年03月06日 | 雑記帳
 週末は横手市の落語会へ。なんと30周年記念興業、第64回というから凄い。主催者はじめ関係者に敬意を表したい。生半可な気持ちでは出来なかったと思う。嬉しいことにいろいろなプレゼントもあった。私が運よく手に入れることができたのは、柳亭市馬のサイン。協会会長のものをいただけるなんて、実に幸せ。



 二つ目に昇進したばかりの三遊亭伊織がトップ。演目は「転失気(てんしき)」である。知ったかぶりをする和尚と小僧の噺。寄席で何度か聞いたことがある。「ああ、オベダフリの話だな」とすぐにわかり、生意気にも批評者モードに…。小僧のオトボケ感の表現に改善の余地ありだな。でも滑舌がよく聞きやすかった。


 続いてこの会のプロデュースをしている三遊亭歌武蔵。何度も足を運んでいるそうだ。歌武蔵の噺は以前も聞いたことがある。お決まりの相撲ネタから始まり、演目は「試し酒」である。安定感のある高座だった。ハイライトは飲みっぷり、酔いっぷりの芸。上手だったが以前聴いた権太楼と比べるとほんの少し…。


 マジシャン伊藤夢葉が「鞭」を持って登場。あんなに間近に鞭を見たのは初めてかもしれない。しならせた時の音は想像以上だ。結局、手品に鞭を使うわけでなく、さっと仕舞う。そうした「裏をかく、かわす」話術が実に巧みだった。客席を手玉にとるような、寄席で積み上げてきた芸を十分に堪能させてもらった。


 トリは古今亭志ん丸。初めて聴く噺家だ。演目は「野晒し」。有名な噺だが高座で聴いたことがあったか…かなり前に志の輔が演じた姿が頭に浮かぶような違うような。「野晒し」は難しいと正直感じた。八五郎の妄想をどんな調子でやるか、それを受ける側の間合いをどうはかるか、ほんの少しの差が世界を分ける。

今日も「良い」天気

2017年03月05日 | 読書
Volume41

「大体何をもって『良い』天気なんだ!?『晴れ』イコール『良い』って考え方は誰の立場を基準にしたものなのだ?(略)『曇りでもつかと思ったらにわか雨が降った』なんて時は『ああこれは予想外の雨なんだなぁ、どこかでこの雨を待っていた人もいるのだろう』といろんな感じ方を楽しむべきなんだよ」


 誰でも、一年のうちに晴れてほしいと願う日が何日かはある。
 その願いが叶ったように、見事な青空が広がる気持ちよさは格別である。

 それはそれとして、アチャーハズレテシマッタアという空模様になることも少なくない。
 そんな時、天気予報に文句をつけても、まして気まぐれな自然に対して恨み言を言っても、何も改善しないことはわかりきっている。

 どんなふうに気持ちを切り替えるか。
 それが全てであるような気がする。



 かつて、哲学者池田晶子はこう語った。

 「幸福とは、内容ではなくて形式」

 まさに、その心の構えこそが幸せそのものなのである。
 自分に対しての内容的な不満、まして自然現象などに腹を立てたり嘆いたりするより、その内容が他の人にとって嬉しく楽しいものであるかもしれないと想う心のあり方なのである。

 気象予報士の資格を持っていながら、あんまり当てにされていない?石原良純が語ったこの言葉は、日々を生きる本質に結びつくと思った。

コトバという生き物

2017年03月03日 | 雑記帳
 県の芸術文化振興大会に参加した。新聞でも報じられたように秋田大学の佐藤稔先生が『間違いなのでしょうか?この日本語!』と題して講演なされた。個人的に実に興味深い内容だった。教職を続けながら、ぽっと心の隅で感じ続けてきた「日本語って結構いいかげんだよなあ」ということを、改めて思い出した。



 講演は演題に使われている「?」と「!」のカード提示から切り出された。様々な媒体で使われるこの二つの記号、使い方も非常にまちまちだ。それは結局そこにルールがないという証拠であり、結局、絵文字やスタンプとあまり変わらないのかなとも感じた。英語やラテン語をもとにした符号のでき方にも驚かされた。


 繰り返し表記「々、〃、ゝ、ゞ」がもたらした字の変化や、造語に「間違って定着する」という場合が多いことも知った。また県内の人名地名に関わる話では、本県にある「草彅」はもともと「草薙」だったものがかなり恣意的に与えられたこと、「掵」のつく地名が急傾斜地にあること(手で命を救う)が面白かった。


 一番ふうううんと思った「誤りの定着」例は、「二十日ネズミ」のことだった。そもそも「噛まれてもあまり痛くないネズミ」を「甘口ネズミ」と言ったそうだ。その「甘口」の、線が一本移動していつのまにやら「廿日」になったというのだ。そう呼ばれてから「二十日で大人になる成長の早さ」が強調されたらしい。


 講演の結論は「言語は多数を制した者が勝つ」だった。これはもちろん現在進行形である。言葉の乱れはいつ時代も指摘されるが、その中で生き残るコトバは注視するべきだ。大多数の人たちの支持は言いやすさから発するが、それだけではない「本当らしさ」「本音」も加味されるから、コトバは生き物に似ている。