すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

辺境住民の提言と祈り

2017年03月19日 | 読書
 「元気のない社会」と聞くと何をイメージするだろうか。「社会」を実際の地名に置き換えてみてもいい。「みんなが使っている『元気』って、要するに『金が回っている』ということでしょう」…多くの人はそう考える。しかし結局「目先の金」に縛られ、元気を無くしたというのに…とそんなことが喋られている本。



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 『辺境ラジオ』(内田樹・名越康文・西靖  140B)

 2010年に始まり2012年まで収録された鼎談的な番組。大阪の毎日放送AM、それも深夜枠というから、ライブで聴いた人は限られているだろう。内容はすこぶる面白い。テーマはあるが当然のごとく台本なし、アナウンサーである西氏が過激な発言をフォローしたり、まとめ的な言葉でつなげたりして治めている。


 6回分の収録と茂木健一郎氏が入った番外編で構成されている。時期として東日本大震災を挟むわけで、混乱期における身の処し方も語られるが、基本的なトーンは変わっていない。成熟社会と言われながら成熟できない個々に対して、「大人はどうあるべきか」が示されていると言っていい。俯瞰的、実際的な提言だ。


 一番顕著に示しているのは、内田、名越両氏が強調する「祈り」を実際に番組中に行ったことだろう。1分間の祈りという無音状態を作った(実際の放送では20秒以上は放送事故になるようで、BGM処理されたらしい)。LIVEであれば画期的だったろう。それは決してギミックとしてではなく、実に先進的な試みだ。


 その時期に話題となったマイケル・サンデル教授への批判も興味深い。「アメリカ人の知的欠陥」という言葉で、彼の「究極の選択」を迫るような手法に駄目だしをする。ここに登場するのが「予防」という発想。師と仰ぐ野口芳宏先生の言葉を思い出した。私達「辺境」に住む者が意識する大切なキーワードだと思う。

小豆を煮ながらぐつぐつと

2017年03月18日 | 雑記帳
 小豆を弱火で煮込みながら、ここ数日のふと気にかかるニュースのことを思い浮かべる。
 「もういいとも学園」のことではない。



 一つは「弾道ミサイルを想定した住民避難訓練」。
 我が秋田県男鹿市が対象となった。政治的な観点でどう見ればいいかは明言できる知識がない。

 ただ、何か一歩を踏み出したような感覚を持ってしまうのは私だけだろうか。

 児童を対象とした訓練も実施された。
 危険回避の準備は当然のことではあるが、そのミサイル発射の理由について語るべき内容を学校職員はどれほど持ち合わせているのか。
 それは必要のないこととは言えないだろう。

 どんなふうに進んでいくのか…ぐつぐつと、小豆が煮えだす。


 もう一つは「給食の漆器使用、いったん終了」というローカルな話題。
 「行事等で」という可能性もさぐるようだが、始められた当時のねらいには届かないことを考えれば、終了したと言ってもいいだろう。
 かつて勤めた地区であり、自分自身も漆器を使った給食を体験したので、残念さが募る。

 「扱いに慎重さが求められる」ことは、使用する側にとってはある意味面倒に違いない。
 その面倒さが、育てる力や思いもあるだろう。
 一年間にある程度まとまった期間、漆器を用いて食べた給食は、味に違いはなかったが、どこか穏やかな気持ちが浮かんできたことを覚えている。
 自分の年齢もあっただろう。しかし、だからこそ小さい頃にそうした時間を持つ貴重さもあるに違いない。

 様々な統合によって機関等が集約されることで、いったい何を失うのか。
 時代の流れと切り捨てないで、もっとその価値について目を向けようではないか…ぐつぐつと、小豆が煮上がってくる。


「これが良い」の似合うひと

2017年03月17日 | 読書
 朝の連続ドラマウォッチャーになって数年経過した。何年か前からはBSの再放送シリーズも視聴している。その範囲内でのマイ大賞作品は『ごちそうさん』だ。(『あまちゃん』は審査員特別賞という感じかな)。『ごちそうさん』は展開のメリハリとともに、杏という女優の「圧」の強さに支えられた質の高い作品だ。

2017読了28
 『杏のふむふむ』( 杏  ちくま文庫)



 『ごちそうさん』の主演をする以前に、「出会い」をテーマに「Webちくま」に連載した文章をまとめて書籍化した一冊だ。改めてこの人の魅力が伝わってくる。テーマに沿って各界の様々な人物との出会いが記されているが、そこから浮かび上がってくるのは、「本物から愛される自然体を持った存在」としての杏だ。


 「野球好き」「読書好き」「歴史好き(歴女)」の彼女は、それらの興味やモデル、女優としての仕事を起点にして、多様な「本物」と関わりを持つ。その方々があの大柄な彼女を、本当に優しく包み込むように受けとめるのは、きっと発する「気」に魅力を感ずるからだ。知的好奇心の塊が行動力を持っているイメージだ。


 彼女は「野球タイプ」だろう。いわゆる「フットボールタイプ」ではないと思う。パスを回しながら組み立てるというより、待ちながら思考し、その場その時に、集中力を見せる。もちろんコミュニケーションは、キャッチボールで…というイメージが浮かぶ。歴史好きは野球好きなのかもしれないとふと思い浮かぶ。


 「おまけ」としてある「後日談 ベラの授業」は「ようこそ先輩」の番組に出演した時、自ら考え小学生に語りかけたシナリオだ。いいセリフがこれ!「大切なのは、選ぶとき『これで良い』じゃなくて『これが良い』って思うことさ。」ちなみにこの文庫版のあとがきは村上春樹。まさに「これが良い」という選び方だ。

彼岸入りを前にして

2017年03月16日 | 雑記帳
 「今年は暖冬で…」

 ある集まりで挨拶された方が、そんなふうに切り出された。
 確かにそう感じている方が大半だろう。現に自宅でもカーポートの屋根の雪を一度しか降ろさなかった。12年目だと思うが記憶にない。
 ただ3月になってから、外を歩くとなんだか雪が多いなあと感じていた。
 町のデータを見ても、去年より30~40cmも積雪量が上だ。

 降雪が少なかったのは確かだが…低温なのだ。
 雪消えが遅いと影響の出る仕事もあろう。暖冬ではあったが、春はまだ寝ぼけているか。




 「復旧から復興へ…」

 3.11後の間もない頃に発刊された週刊誌などを何冊か保存してある。
 あの年以外はそんなめくってみることもなかったが、今年久しぶりに開いてみた。
 当時の混乱ぶりを思い出すとともに、少し特徴的と感じたのが上記の言葉だった。

 災害に遭った場合の前向きな常套句には違いない。しかし、今二つの言葉の意味を考えると、少し複雑な思いにとらわれる。
 特に原発に関わる福島を考えたとき、「復旧」を求めている人の多いこと、そし復旧は限りなく困難である現実だ。



 「We are The colors in the dark(ぼくたちは 暗闇の中の色(ひかり)だから)」

 正月夜のゴールデンの時間帯にNHKが放送した「18祭」を見た方はどのくらいいるだろうか。
 ONEOKROCKというロックバンドが1000人の18歳とともに「We are」という曲を大合唱した。迫力あるライブだった。
 その歌の最後の詞が妙に頭に残る。

 この色(ひかり)は、誰をどこを照らすか。
 「新成人」ともいうべき18歳。時代は暗闇という現実ばかりが強調されてはいけない。
 色は「ひかり」という希望を持ち続けることか。

「深呼吸」を思い出して

2017年03月15日 | 雑記帳
 ルーティンのように深呼吸をすれば、幸せ感は2割ぐらいアップする…あると思う。

 去年の大晦日に、こんなことを書いた。

 今年一番多く聴いた歌い手は「ハナレグミ」。今まで知らなかったがNHKのカバーズに出演したときに、その歌声に強く惹かれた。即CD購入に動いた。自分の好みは、やはり声にあることを再認識する。

 ハナレグミのCDを3枚買って、主に車でずっと聞き続けていたが、実は最初にいいと感じた曲はそれらのなかに入っていなかった。
 その曲は、去年の夏に公開された映画「海よりもまだ深く」の主題歌である『深呼吸』。
 https://www.youtube.com/watch?v=1xvATczF7uo

 今頃になってなぜか思い出し、収められているミニアルバムを購入した。


 
 改めてじっくりと聴いてみる。
 魅力的な声とともに、その詞の世界がとても抑制の利いた表現で、惹かれてしまった。


 ♪夢みた未来ってどんなだっけな 
  さよなら 昨日のぼくよ♪


と始まるスローテンポの曲は、サビが印象的だ。

 ♪おーいおい
  おぼえているよ
  おーいおい
  わすれないよ♪


 この何気ない言葉が呼びかける対象は「ぼく」であり「君」なのだが、『深呼吸』というタイトルと実にマッチしていると思う。

 呼吸とは違う深呼吸。

 ふだん意識しない呼吸は、外界からの様々な刺激によって乱されることで気づく行為とも言える。
 生命を維持していることの証しでもある呼吸を、人は実はあまり見えていないし、気にもとめない。

 しかし、深呼吸が身体や心にいいことは、みんながーなんとなく知っている。
 それを、なかなか気づかず、見過ごしている自分がいる。そんな日常を送っている。

 だから、気づいたときは、意識的に呼吸する。
 だから、時々、深呼吸をしてみる。

 それは、忘れかけた何かを思い出す行為にとてもよく似ている。

 ♪手放すことはできないから
  あと一歩だけまえに
  もう一歩だけまえに♪


 終わりのフレーズは、深呼吸をしたあと心に広がる世界を映し出している。

ダジャレ主任ぐらいで

2017年03月14日 | 読書
 「私のことは、これからダジャレ大王と呼びなさい」と、偉そうに一年生に言い放ったら、しばらく「大王様」と呼んでくれる男の子がいた。利発な賢い子で(そう言えば、私が担任した子の息子であった)自分でもダジャレを言って楽しんでいた。ずっと思ってきたが、そんなふうに楽しめる子は言語能力が高い。


2017読了27
『ダジャレヌーボー』(石黒謙吾  扶桑社)



 現場を去りダジャレ大王の威厳もなくし、刃もとうに錆びついてしまった。さらにこんな本を読むと、自分が大王などと名乗ったことの不明を恥じる。著者は自らを「ダジャレ係長」と命名していて、この著のダジャレ収録数はなんと1000。仕事師である。そんな本を前に弟子入りしたい気分になる。主任ぐらいで。


 載っている「作品」に思わず吹き出すものも多いが、それ以上に理屈が面白い。「『あることばを意識して、ほかの似たことばと結びつける』これはことばの「見立て」にほかなりません」…見立てという日本文化の象徴のような考え方を用いて説明するあたりが、自称「知的ダジャラー」(笑)の心をくすぐり、納得させる。


 発刊が10年以上前なので、もはや流行に取り残されているものもある。ここらで著者に挑戦してみようと、昨今の話題で作ってみると…「もういいとも学園」(注:森友学園)、「パックくれ、大統領」(注:パククネ大統領)「気志團、超鈍(のろ)し」(注:騎士団長殺し)…あまりにも無理やり唐突過ぎて、自分でも笑えない。


 ダジャレはその場で発生させるもの。筆者は「流れ」と「タイミング」と表す。そして「後処理」が加わっての「総合芸術」と位置付けている。店に入ってからシャレを発するまでの伏線の張り方も記され、実に興味深い。夕餉の食卓で「『しいたけお』(注:地井武男)美味しいね」というレベルからは、遥か彼方だ。

「空気」への向かい方を示す

2017年03月13日 | 読書
 「クウキヨメ!クウキヨメ!」卓球台を囲む子供たちが、プレイする男児へ大合唱のように叫ぶ。短い休み時間を利用した勝ち抜きのピンポン遊び。一人の男児がずっと勝ち続けるため、なかなか自分の番が回ってこないことに対するブーイングだ。こんな場所でも使われ始めたと痛感した、約10年前の一コマである。


2017読了25
『「空気」の研究』(山本七平 文春文庫)

 科学用語の気体の一種とは別に「その場の雰囲気」という意味を持つ「空気」という語。それを、物質の「臨在感的把握」による「判断の基準」とし「絶対権威のように驚くべき力」を持つと書いた名著である。「空気」の前には論理など役に立たないことを、戦時下の例などを挙げて解説し、その原因が掘り下げられる。


 難解で読み切れない点が多かった。そんななか印象に残ったのは昭和期以前の人々が「その場の空気に左右される」ことを「恥」と考えた面があることだ。空気を「作り出す」存在は、どこにもいつの時代もいる。その意図を見抜く力こそ肝要。第二章は「水~通常性」であった。時に「水を差す」ことも意識したい。



2017読了26
『空気は読まない』(鎌田 實  集英社)

 「クウキつながり」で買い求めた。著者の本は何冊か読んでいるので、内容は予想がつくし、確かにその通りだった。著者と交流のある多くの人々の姿を描き、それを「空気」というキーワードを使って表している。従って書名から想像させる悪い意味の空気だけではなく、「あったかい空気」の拡散も熱く語られる。


 最終章に、『「空気」の研究』にも触れられ、こんなふうに記している。「今も、この国に空気という妖怪が棲んでいる」そうした大きな圧力に負けないために、自ら「あったか空気」を作り出し、まわし続けることが大事と説く。「読まない」意味は、生き方の問題。「空気」への向かい方を示す動詞は、他にもたくさんある。

この問いかけが提起すること

2017年03月12日 | 読書
 「『小学校の英語教育義務化』で、最後に利益を得るのは誰か?」が、第4章の冒頭に問いかけられる。その結論が、授業をうける子ども及び日本社会と言い切れるのなら、こんな本は出版されないし、また多くの人が手を伸ばしはしない。マイクロソフト日本法人の元取締役、稀代の読書人である成毛眞のペンは鋭い。


2017読了24
『日本人の9割に英語はいらない』(成毛 眞  祥伝社黄金文庫)


 小学校における英語教育拡大は「総合的な活動の時間」が創設された時点から、既定路線のように進み、今回の指導要領という形になった。国際化、情報化が広がるなかで当然という見方はあるが、「では何のために、どの程度」と問えば、現状と照合していない点も多い。教科化によって競争の道具にされる要素もある。


 英語、英会話を学ぶことがコミュニケーション能力の向上に寄与する部分はあろう。また、外国に関心を持ち、外国語に慣れることも批判されることではない。ただ限られた公的教育内容の中にどの程度の位置づけをするかは、真剣に慎重に検討するべきである。英語重視という「空気」がもたらす弊害はないのか。



 今だから白状すれば、外国人の英語指導助手の方が来校すると、職員もほとんど英語で挨拶し合うことに少し違和感があった。子どもに英語を教え合う一員同士であることには違いないが、別に日常挨拶を英語優先にする必要はないだろう。ここは日本なのだから、この国にいるのだから、この国の挨拶をすればいい。


 往年の漫才師人生航路のような調子と知りつつ、やはりその場面は結構象徴的ではないか。些細なことと笑うなかれ。文化的侵略なのだ。著者は、諸外国の現状や歴史的経緯を踏まえ、結局のところ「たかだか金儲けのため」と英語振興のねらいを喝破した。グローバルな思考が英語習得で鍛えられるわけではない。

少しだめになる日常とは…

2017年03月11日 | 読書
 バラエティを見ていて「鋭い」と感じる発言をする芸能人がたまにいる。ニュース番組のキャスターに配することの良し悪しはともかく、Eテレあたりの番組なら十分に許せるし、楽しい。その一人「コイツ、ただのデブじゃないな(最近痩せたが)」と思わせるのが伊集院光。風呂場読書にいいと思って文庫本を購入。


2017読了23
『のはなしに ~カニの巻~』(伊集院光  宝島社)



 どんな職業にあっても、自分の位置を維持するためにそれなりの努力は欠かせない。「ネタ集めのために」10紙以上の新聞を購読していた時もあるというのだから、そこにはパワーとパッションを感じる。集められた「小ネタ」はやはり小さいものだが、だからこその真実も見えてくる。あるエピソードが秀逸だった。


 PCが壊れて修理に出した。購入店に持ち込み「3週間で」という返答をもらう。期日になり店に問い合わせると「メーカーへ」と言われる。そこで直接電話すると、担当者が「あと3週間」と答える。そこで「どういうこと?」と聞き返すと、「明日出来る」という返答に変わった。ごねればいいのかと逡巡した著者。


 結局、クレーマー扱いされたくないし早く手元に届いてほしいので、それ以上話をせずに電話を切る。しかし、もし「わかりました」と言っていたらどうなったのか、間違いなく待たされた…「ごね得」ではなく「ごねない損」かと浮かび、そんな応対が目立つ世の中と自身の心について考え、こんなふうに章を結ぶ。

 翌日の夜、パソコンは手元に届いたが、僕は少しだめになった。


 著者は「素直に承諾したものが損をする」ようなシステムを批判しつつ、店やメーカー側の不誠実をなじることで済ませていない。正当な理由があるなら毅然と説明する、ミスがあるなら謝るといった「誠実さ」を引き出せなかった自分を内省する。処理を急ぐ日常が「だめ」にしているコト、モノがいかに多いか。

美の国秋田の女性目線

2017年03月10日 | 雑記帳
 先日、親族で小宴をしていた折、「あの人ケナダレエグなって…」という聞き慣れない方言が出て、ひとしきり話題になった。あとから気になり『秋田のことば』を調べた。「けなだれ」とは「①血筋。毛並み②品柄。種類」とある。そして離れたページには「けなだりわり」が「生気がない」と記されているばかりだ。


 結局「けなだりえぐ(いい)」という見出しは載っていない。使い方のニュアンスとしては「見かけがよくなって」だった。しかし、本来?の意味によると「血筋がよくなって」と解釈され、当てはめるには無理がある。牛馬等が丁寧に世話をされ「(表面の)毛並みがよくなって」の意味が拡大して、人にも適用されたか。



 また「けなだりわり」の意味を反転させて「生気が出てきた」ことを含めて「けなだりいい」と表した可能性もある。さて、その話題に絡んで出てきた言葉の一つに「きさじまげる」がある。これはかなり浸透していて?「かっこうつける」意味だとほとんどわかっていた。『秋田のことば』には「おしゃれする」とある。


 この語源が面白い。漢字で書くと「気散じまける」。「まける(ORこく)」は言う、行うという意味である。「気散じ」は広辞苑にも載っていて、いわゆる「気晴らし」のことである。その解説が断定的である。「気晴らしの中でも主要なことと言えばおしゃれをすることである」これはかなり女性目線ではないかと思う。


 「きさじまげる」のページで驚くのは「おしゃれする」という意味の方言があまりにも多いことだ。「こべたげる」「ひょろける」など見出しになっている言葉だけで9つもある。さすが秋田美人の国と言うべきか…しかし、それらの表現は、どうも「めがす(めかす)」ことへの非難が強いようだ。これも県民性なのか。