すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

そういえば「無」の魅力

2017年05月21日 | 雑記帳
 そういえば「ないないない 恋じゃない」というシブガキ隊の歌があった。「NAI NAI 16」だ。確かサビは「ジタバタするなよ、世紀末がくるぜ。欲しけりゃ今すぐすがりつけ」だったか。あの時欲しがっていたものは何かと思う。ないと否定したのは心情の裏返しで、なぜ手に出来なかったかを考えてみるのも楽しい。


 そういえば「三無主義」という言葉があった。「無気力・無関心・無責任」がその中身だ。それはいわゆる「しらけ世代」と称される層に当てはまり、「三無世代」とも呼ばれたはず。そうです!実はジャスト私の世代。もう一つあった「ムリ・ムダ・ムラ」の三無主義…これは経営効率の話で、この二つは背中合わせだ。



 そういえば北海道新聞で、あの倉本聰が富良野の現在から「国内全体が経済主義に傾く中で、地方都市としての役割を考えなければならない。そのためには、誰も思いつかないような無鉄砲な発想が必要だ」と語っていた。しかし、現国会の様子を見ても、「無鉄砲さ」を縛る予定調和の時代になっていくことは明らかだ。


 そういえば「無鉄砲」はそもそも「無手法」だった。「無点法」という説もある。鉄砲ではなく手法がないことに通ずるのだろう。点法が無いと解釈すれば、明確に定まらないイメージか。そうした意味では確かに誉められたことではない。しかしまた、そこに秘めた起爆力の要素が強く感じられる。「無」には魅力がある。

人を見ないだけでなく…

2017年05月20日 | 雑記帳
 東京に出かけた最初の頃に、いわゆる「人に酔う」状態になったのは私だけではないだろう。そしてその訳は、いちいち人の顔を見るから、圧倒的なその数に耐えられないから、と簡単に悟った。そして「見なけりゃいい」とそれを実行すると、症状は改善する。従って「人を見ないこと」が都会で暮らす鉄則なのだ。


 かなり寂しいこの事実を受け止めつつ、たまに出かけることに慣れてくると、観察する余裕まで持てるようになる。そうなれば「玉石混淆」の都会は、絶好の対象になる。今回の行動範囲は両国、銀座、人形町と東京駅周辺、ますます他国に向けて観光地化している印象を強く持った。新たな工事現場も多いと感じた。


 柄にもなく銀座でお食事と思い立った。お目当ての店に向かうときに華やかな通りに目を奪われた田舎者に、マイクを通した街頭演説の声が聞こえてくる。「皆さんは、今幸せですか?」しかし、語り口が宗教関係とは違うな…近づくと、かの国会議員山本太郎と判明。どのくらいの人が足を停めるか、耳を傾けるか。


 昨年、上野に泊まった時はやはりアジアや中近東系の人が多いと感じた。今回は銀座だったので、欧米風の人(白人か…)が目立った。バイキング朝食の様子など見ていると、改めて我々との違いを感じてしまう。皿に盛られる食べ物の種類や量を見てください、誰でも気づくと思う。そう日本人は圧倒的に多く盛る。


 (歌舞伎座の前に並んでいた外国人が履いていました)

 教育に関わって見聞きしたなかで、忘れられない一言がある。「日本人は豊かな時代の子育てを知らない」…米国人の言であった。自分が親となってしみじみと痛感したことでもあった。物質文明(こういう言い方もしなくなった)への批判は散々あったが、一番困難な問題は子育てだった。その結果が国を覆っている。

「ない」を課して暮らす

2017年05月19日 | 読書
 十年ほど前に「『ない』を誉める」と題して、ある教育雑誌に原稿を載せたことがある。「子どもを誉めるわたしの必殺技」という特集だった。子どもの「あきらめない」「わからない」そして「こたえない」「食べられない」を誉める技術について書いた。中味はともかく、発想や題、構成などは人目を引いたかなと思う。



2017読了53
 『人に強くなる極意』(佐藤 優  青春新書)


 教育とは異なる分野の新書だが、著者が「極意」と著した章立ては全部で8。全部「~~ない」と題している。「怒らない」「びびらない」「飾らない」「侮らない」「断らない」「お金に振り回されない」「あきらめない」「先送りしない」…読者対象はビジネスマン。行動決定の指針は、ネガティブリストが印象強いか。


 こういう題で書き進めながらも、最終的に「怒る」「びびる」…場面の大切さが強調され実にわかりやすい。例えば、日本が本当に「びびる」必要がある相手は、北朝鮮でも中国でもなくアメリカ合衆国であるという論は、考えれば当然だろうが、意識化できない日常を送っている。そういう見方を教えてくれる本だ。


 個人的に沁みたのは「侮らない」だった。最近ある事で少し恥ずかしい思いをし、少しの間心がとらわれた。よく考えてみると自分の向き合い方の問題だった。まさしく侮っていた。「『侮り』って人生の罠のようなもの」「『侮り』とは事後の概念」どちらの記述にも納得した。姿勢を正さねば、再び罠に足をとられる。


 「侮らない」だけでなく、章立ての「~~ない」を課した仕事(暮らしも同じだ)をしていくために、大事な共通事項をこの著から探すと次の二つになると考えた。「自分の力を見極めること」「誠実に精一杯向き合うこと」…02年の外務省騒動によって逮捕され長い拘留生活を送った著者の、経験値が集約されている。

溜席の臨場感はさすが

2017年05月18日 | 雑記帳
 大相撲を「溜席」で観てきました!これは、なかなかチャンスがないと思う。5月場所は溜席(の一部)が電話申込による抽選があると知り、4月上旬に家の固定電話と携帯2台を使って挑戦してみたら、運良くその一つが当選した。盛り上がる大相撲ブームで前売り券は即完売と聞くと、我ながら運の強さに感謝。


 今回はお昼過ぎから国技館に乗り込み、幕下の取組や館内の様子なども見ることが出来た。ふだんテレビでは見られない場所や場面も十分堪能した。9月場所も枡席で結構良かったのだが、はっきりと力士の表情をとらえられるし、生々しく体が当たる音、それから場内歓声が凄く、まさしく「臨場感」そのものだった。



 稀勢の里人気も大きいが、それ以外の注目力士も多い。なかでも小兵とされる石浦と宇良。この両者の取組があり実に楽しめた。いい「役者ぶり」だった。かつて吉本隆明は「相撲は一つの芝居、歌舞伎みたい」と言った。それは脚本の有無ではなく、様式美のある表現ということだ。躍動感は近いほど見てとれた。


 外国人団体客はもちろん、修学旅行一団もいたようだ。和文化として見るべき価値があるだろう。反面流行が過ぎると、完全素人も混じる。後ろに陣取った女性母娘は取組表を見て「碧山」を読めずに「えっ、何、ミドリヤマ」などと言っている。力士名がこれでは他は推して知るべし。予習して観ましょう、日本人。

地方はどこを向かされたか

2017年05月15日 | 読書
 「地方に行くと、『人材はみんな、東京にとられている』とよく言われます。それは新幹線を引くからとられてしまう。引かなければよかったんです。馬鹿ですね(笑)。」
 
 論者のこの言葉をどう受け止めるか。



2017読了52
 『日本の将来はじつに明るい!』(日下公人・上念司  WAC BUNKO)

 保守系論客同士の対談。上のような「言いたい放題、しかもかなり痛いところを突いてくる」箇所がいくつもある。「アベノミクス」「イノベーション」「エネルギー問題」等と現在日本の状況と課題について、二人の価値観は非常に近いようだ。個人的に注目したのは第2章「本当に『地方』は再生できるか」である。


 その中の一節が冒頭に引用した上念氏の言葉である。正直、馬鹿にされているようでいい心持ちはしない。新幹線や高速道路はいったい誰が何のために…と考えれば、現在の状況が出来てからそんなことを口にされても、と思う。そして同時に、それが典型的な事象になっていることは認めざるを得ないのも悔しい。

 その発言に対して、日下氏がこう続ける。

 「(地方は)人材育成の点で言うと『東京で活躍できる人材』をつくっているのが余計です。」

 この指摘は重い。その言葉通りに意図せずとも、文部科学省がトップに立つ行政のしくみが、教員や保護者に浸食させている意識は大きいと思う。一教員として実践サークルをしていた頃、何がきっかけだったろうか、次の問いが浮かんで、自分の考えをまとめたことがあった。…「なぜ、地方に教育委員会は必要か


 遅ればせながら、自分はその時この国の構造的な問題に気づいたと言ってもいい。もちろん政治や行政の問題をある程度理解していたが、毎日の仕事を通して肌で感じ得たと言っていい。それからほどなくして、県学習状況調査が始まり、続いて全国学力テストが始まった。確実に「人材育成の方向」は仕上げられた。

足腰の強い人

2017年05月15日 | 読書
 名前は知っているが著書には触れていない三人の新書を手に取ってみた。
 考えは違えども、足腰の強靭さには見習うべきことが多い。
 世代のせいにはしたくはないが…とうてい敵わないなあ。
 
2017読了49
 『たしなみについて』(白洲正子  河出書房新書)

 女性の評論、随筆の草分けと言っていい存在であることぐらいは知っている。文章の長短はあるが、一つの箴言集のような趣がある。考えると書名の「たしなみ」とはずいぶん多義に用いられる。「芸事などへ親しむこと」「日頃の心がけ」「つつしみ」「身を飾ること」「嗜好品を口にすること」…全てを網羅している。

 範囲が広い中、言葉に関した記述に際立つものを感じた。外国語習得に関して、これほど辛辣な文章はそうない。曰く「習ったら出来る様になる言葉なんてものは、たまに便利である以外に何の用もなしはしません」。人を理解するためにはまず「違うものであると知る事」が先決という。コミュニケーションの肝を想う。



2017読了50
 『銀行に生き、地域に生きて』(町田 睿   さきがけ新書)

 地元紙に載った連載を読んだことがあった。第一部は半生記、第二部は新聞論壇に寄稿した文章、三部以降は諸原稿となっている。繰り返しになる記述も多いが、銀行マンとして情熱を傾けて働いたという誇りや気概に満ちているし、地元秋田を思う強い意志を感じる文章だ。一定の影響力も発揮している方だと思う。

 重ねて語られる一つに「1極集中の是正、地方重視」がある。それは、この国の未来に関わる最重要事項である。どうしてそれが進まないのか。著者に限らず、口にする方々の影響力を考えると不思議な感じがする。それゆえ根深い構造的な問題、牽引してきた世代の根本的価値観との相違があるように思えてきた。


2017読了51
 『老活のすすめ』(鈴木健二  PHP)

 人気アナウンサー時代の頃の印象は強烈だ。著者は、大勢を相手にする時と個人的なコミュニケーションをとる時の違いが大きいと書いているが、容易に想像できない。それほどに魅せたバイタリティ通りに人生を進めている著者が、「老」をどう考えどう暮らすかが具体的に記される。腰のひけない生き方の典型だ。

 放送人としては稀有な存在だった。それは「内容を自己を通して発信する」からだろう。報道番組だけでなく、バラエティ等においても「より伝わってくる」語りが巧い。本書の中で圧巻なのは1950年代の戦没者追悼式典だ。無言の慣例を破り、単語だけで戦争への「執念」を述べたくだりは、今想像しても凄みがある。

そういえば、愛鳥週間

2017年05月15日 | 雑記帳
(鳥は鳥でも昨日とは打って変わった話となった)
 人間以外の動物にあまり興味のない私でも、ここ数年春山に出かけると、鳥のさえずりにしばし聞き入ることがある。だんだんと寂れていく気がする山間部にあって、その声の響きが年々透明度を増しているように感じるのは、寄る齢の感傷なのか。そういえば10日が「愛鳥の日」で明日16日までが愛鳥週間である。



 新採用の学校が「愛鳥モデル校」だった。この時期になるとポスターや巣箱製作など定番の活動があった。しかし追い立てられている感じはなく、楽しく取り組んでいた。一度、教室で飼った小鳥を死なせてしまったことがあり、管理の悪さを校長に叱責された。己のずさんさが見事に露呈した忘れられない出来事だ。


 キジやヤマドリの放鳥などもあった。近隣の学校の話だが、子供たちと一緒に放した鳥が、数日後に職員室の窓をめがけて突入し亡くなったので、職員たちがそれを密かに美味しく「成仏」させたこともあったそうな…。巣箱も取り付けたが、それより木造校舎の軒の隅に巣作りをしている様子が自然で良かったなあ。


 たまたま手元に「トリーノ」という小冊子がある。これは「日本野鳥の会」が発刊しているフリーマガジンである。鳥のことだけでなく、様々な話題が載りビジュアルも優れている。なかに「オオジシギ保護調査プロジェクト」と題した「渡りルート」の記事があり、調査活動とその経過を思わず読み込んでしまった。


 なんと「7日間ノンストップで太平洋上を飛行」したという。人間の両手に収まる程度の個体だが、その生命力たるや想像を絶する。他の種には近づき得ない世界だ。動物の生態を知ることは、ある面で人間の限界を知ることにもつながる。身近な話題に挙がるクマやカラスであっても、それは同じではなかろうか。

麺食い野郎の近況

2017年05月14日 | 雑記帳
 久しぶりの「たべびと」ネタ。麺食い野郎の近況です。

 最近、食べたラーメンのなかで印象深いのは由利本荘市にある「たかしょう」。



 写真からもわかるように、「親鳥」を使う本荘独特のスタイルである。
 オーソドックスな味、麺だが、実に食べやすい。
 有名なのは「清吉そば」だけれど、こちらの方がいいなと思う。

 お昼時に行ったら、行列はできていないけれど、結構なお客さんの数、しかも回転が速い。
 おにぎりの他はラーメンのみのメニューで、いかにも本荘のソウルフードという感じ。
 お客さんの頼み方も「麺堅め、ネギ多め」というような声なので、常連がかなりついているのでは…。


 改めて、その「親鳥文化」ということを感じる。

 東由利には、親鳥専門の肉販売をしている店があるということを聞き、それを買い求めてもみた。
 もちろん「宅ラー」ということで…
 
 その肉を使ってスープをとり、肉を使って食した二種「塩味」と「醤油味」

 

 

 鶏だしということで、塩の方が合っていたけれど、醤油も捨て難かった。

 全国的にも親鳥を使用している箇所がある。

 有名なのは「肉そば」で売り出している山形が「鳥中華」も出しているし
 →http://umappu.com/taisho/

 検索したら、岡山の笠岡ラーメンという渋いものも見つけた。
 →http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/mofumofu/3079


 若いモンには物足りないかもしれないが、健康に気遣う世代の麺食い野郎、淑女たちは一食の価値があると思う。

しかしそれは、毎年確かめる

2017年05月13日 | 教育ノート
 「いつ頃だっけ?」と、通知表の所見ワープロ記載について思い出してみた。

 校長として2校目のM小に赴任したときに、既にその学校では行われていて、それをチャラにして考え直すなどという大胆さも持てずに、こんな文章を校内報に載せたことがあった。

 しかしそれは、毎年確かめるべきことのように思う。




・・・・・・『声日記』№9(2009.6.24)より


 通信簿「あゆみ」は昨年度の形式を踏襲することを決定しましたが、「所見欄がパソコン、ワープロ印字でも構わない」点は正直少し驚きでした。
 聞くところによると人数規模に関わらず、そうした学校も増えているとのこと。こうした多忙の中ではやむを得ないのかもしれません。
 本校の場合、夏休みにすぐ面談があることで通信簿の位置づけも考える必要がありそうです。

 さて「構わない」とすることは、現状では多くが手書きによる直筆にはならないでしょう。
 それを踏まえて、老婆心ながらいくつか思っていることを書いてみました。

 ワープロ印字の文章は不利だと自覚する

 これは40代以上?の先生ならば少なからず体験したかもしれませんが、学級通信が直筆からワープロに変わったときの親の反応。
 私の場合は「よかった、読みやすい、いい」という評価は一つもありませんでした。
 「なして、ワープロだな」「先生の字の方が良かったなさあ」などと言われました。
 いくら悪筆であっても、字がその人そのものを表し、温かさや厳しさを伝えることに有効なのは確かなようです。

 通信簿は公的な文章に違いないのですが、読む方は私信的な印象で読んでいると判断してもいいのではないでしょうか。
 そうすれば、先生方が所見・連絡で協力や指導をお願いすることを効果的に伝えるためには、ワープロ印字の方がより工夫がいるということになります。


 印字されたものは個性を持たないために、内容面で個性を持たせる

 もちろん、その子をよく見て成果や課題を書くわけですが、画一的に読まれるという不利さを感じさせないために、職員会議でも言われた「個人名」は大きな一つのポイントだと思います。
 もう少し列挙していくと、「その子が際立つエピソードを入れる」「まとめ的な用語や概念を使わないで、できるだけ具体的な活動名や評価ことばを使う」「文章構成のパターンをできるだけ多く準備して使い分ける」…

 子どもも読む、見せ合うということを前提とすれば、こうした点により意識的になることが大切でしょう。


 ワープロの文章がスムーズゆえの落とし穴

 正直もうワープロなしでは文章も思い浮かばないほど依存性が高い私ですが、この便利さ(簡単に修正が効くが中心)ゆえ、考える前に打ち込む、適切かどうかの判断が薄くなるという傾向が高まっている気がします。
 特に、書き進めていると「主語」が何か、文のねじれがないか…このような点が推敲ポイントとなるはずです。

 ぜひそのあたりを慎重に、保護者の心に届く「温かい内容」にしてもらえたらと願っています。

・・・・・・・・・・・・・・

文字にやどる身体性を

2017年05月12日 | 雑記帳
 そう言えば、自分も昔買ったことがあったと記憶がよみがえった。『ツバキ文具店~鎌倉代書屋物語』第4話で主人公が代筆するために選んだ筆記具は、ガラスペン。…あれは高校生の頃か。しかし、何のためだったか。訳のわからない詞のようなものを書きつけたのだろうか。青いペンだったことしか覚えていない。


 そんな話をするなかで、連れ合いが学校に勤めていた当時に「通信簿の所見欄をワープロで書きたいといった人がいて、校長に叱られていたっけ」という20年以上も前の思い出話を口にした。今となればパソコン処理が普通になってしまい笑い話のようだ。しかし、その所見記入に関しては結構な葛藤があったはずだ。


 個人的な経験では、その前段階に学級通信の手書きからワープロへの変化があった。「文豪ミニ5」を操り始め、自分も徐々に手書きとの「併用」から移行したのだが、完全転換まではいかなかった(一部分に手書きを残す)。「キレイだのも、先生らしさが無くて駄目だ」と、うるさ型の保護者たちの声も心に残った。



 通信はもちろん公的なものだ。しかし条件に差があるにしろ、受けとめる側に「私信」的な要素が感じられれば、心に響くと言ってもよい。『ツバキ文具店~』の主人公は、出す相手や内容によって、筆記具や紙、封筒そして切手まで選ぶ。文章を活字で印刷してもらった場合もあった。「伝える」ための最大限の工夫なのだ。


 個に向ける私信と複数が対象の通信とは根本的な違いがあるし、目的に沿った手法になろう。ただ文章内容だけでなく「文字」の占める重要性にも心を配りたい。連れ合いは、数年前に退職するまで「保健通信」を手書きで出し続けた。アナログ体質(笑)がその理由だが、やはり身体性を示す大切さは仕事の核でもあったのだ。