すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

音痴や桂馬でもいいんだよ

2017年05月01日 | 読書
 この二つの本、同じように見えるけれど、違っている。どこだろう。



 右が単行本、左が文庫である。内容は同じ。ただし文庫本には、著者による「文庫本のためのあとがき」と、編集者が「『世界音痴』ができるまで」という文章を寄せている。

 少し注意すればわかるように、回転ずしが回っているのが単行本、止まっている?のが文庫である。さらに赤い服を着た人物(著者)の視線も違っている。
 題名と著者名の大きさも微妙に異なる。
 何か意味づけがあるのか・・・・・・ない。

2017読了45
 『世界音痴』(穂村 弘  小学館文庫)

 文学を読む愉しみの一つに、読者が「これは自分のことを書いている」という思いが浮かび上がってくることが挙げられよう。その頻度がお気に入りの作家を決める。自分にとって穂村弘は間違いなくその一人。だから、読んだはず…と思いつつ文庫本にも手を出してしまうということが起こる。ど忘れの言い訳か。

 穂村のエッセイの多くは、人間の暗部(それは大げさか、陰部じゃ変だし、そうだ)人間の日陰的な部分に焦点をあてている。自虐的な告白など、誰しもそうした気持ちを抱えることがあるだろっ!と指摘されているようで、ぞくぞくする。怖いようでそして笑えるようで…例えば、この一節はどうだ。

 楽しそうに話している中学生たちをみると、ふいに憎い気持ちが湧き上がることがある。早く未来になってこいつらが全員絶望してしまえばいいと思う。許して欲しかったら、明日までに一個ずつ将棋の駒をポケットに入れて来い。いいか、間違えるなよ。「桂馬」だ。


 なぜ「桂馬」なのか。ここに独特のセンスがある。桂馬から想像を広げる作者の心根が見えてくる。曰く「まっすぐ歩けない」「しっかり向き合えない」「何かをとばして進んでしまう」…そういえば、中学や高校の教室には一人二人「桂馬」のような奴がいたと思う。ピント外れの磁力の持ち主。今になって気づいた。

 穂村の凄いところは「音痴」を自覚し、その範囲で行動していることだ。音痴なのに声を張り上げてみたり、声を隠して口パクをしたりして「世界」に参加することだけに意義を見出そうとする人が多い世の中。そうではなく、もっと自分だけ可愛がっていいんだよ、恥をかいても平気さ、という心持ちにしてくれる。