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入れ物が無い、でいいのか

2017年05月02日 | 読書
 「入れ物が無い両手で受ける」という尾崎放哉の俳句がある。解釈といっても、その通りの俳人の状況を示しているだけと思う。しかし、また「入れ物」と「両手」、「無い」と「受ける」の対比を考えてみると、いろいろな想像が働く。人間、本当に絞り込んだ時に何が残るかと言えば「入れ物」(うつわ)は二の次なのか。


 司馬遼太郎の『坂の上の雲』のドラマを観たときに、印象的なシーンがあった。好古と真之の秋山兄弟が食事をする場面で、茶碗が一つしかなく兄が食べ終わってからそれを使ってご飯を食べていた。家単位ならばそれは普通でなかったと思うが、食事など、まして入れ物などその程度でよいという価値観とも言える。


 と、こうした先達の姿に想いをはせる時、何故「うつわ」かとなるが…。やはり、身につける衣服と同様に食事の道具としての器も、人間生活に欠かせない文化であることは確かだ。雑誌『サライ』がうつわの特集をしていたので、久しぶりに購読した。そこには日本人の食文化そして美意識が大きく反映されていた。



 中華も西洋料理も食べた傍からうつわを下げていくのがパターンだ。日本料理も懐石ではそんな形をとるが、いわゆる銘々膳の文化があったことで椀や皿、鉢などが多様になったのは大きな特徴だ。うつわの絵柄そして料理の盛り付けなども考えられ「目に障りのない状態で何時間ももたせるのが本意」と書いてある。


 日本の伝統的な食文化が「うつわ」に支えられていることを、改めて認識した。何を食べているかは最重要なことだ。しかし何に盛りつけ、どう使って食べるかも、その繰り返しによって培われる感性はかなり大切だろう。その意味でも、先日「うつわ買い」した自分は、かの白洲正子の次の言葉に叱られた気分である。

 「ちょっといいものは買わないように。本当にいいと思える物だけを買いなさい」