すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

もう一度「學習本位の教育」

2017年11月17日 | 教育ノート
 朝ドラ『花子とアン』の再放送を観ていて、花子が教員として勤める郷里の小学校職員室の掲示物が目に留まった。そういえば3年半前も同じ箇所が気になり、このブログに残してあった。花子とアンと学習本位。時間が経って何か解決したわけではない。相変わらずぼんやりしたままだが、まだ今日的課題である。



 白梅学園大学長の汐見稔幸氏が「教えから学びへの教育発想の転換」と題して自著を紹介していた。もちろんずいぶん前から似たような主張は繰り返されてきた。児童・生徒たちに対して、いわゆる「学びの保障」を行ってきたかという批判はずっと続いている。その曖昧さについて、汐見氏は次のように見定めた。

 日本の教育は~(略)~教師は教育上の工夫をすることがプロであることの証であるという姿勢は保持していましたが、それでも、あるところまではその努力をするが、細かなところは生徒自身の努力すべきことで、その努力が後で社会人になったとき生きてくるのだ、という立場です。


 当然個人の努力抜きに成長も向上もありはしない。しかし、それは無限大に言い訳できる根拠になることであり、中途半端なままで児童生徒の個性理解を進めてはならない。授業のスタイルを変える努力なしに、「教え」より「学び」が基本という理念の実現は難しい。さらに「学びの質」の深い吟味も喫緊の課題だ。


 初等教育における基礎基本の定着を工夫しながら、発達段階に応じた個の興味、関心、適性等にそったカリキュラム展開を行き渡らせたい。しかし、精選を唱えつつ一方では内容増加が進んでいる現状は見逃せず、アクティブ・ラーニングを方法として捉えるレベルでは、保障したい「学び」が宙に漂う心配も出てくる。

御仕着せとは知らず

2017年11月16日 | 雑記帳
 今になって気づくことが多い日々。BSドラマ『赤ひげ』を観ていたら、「オシキセ」という言葉が出てきて、ああそうかと合点がいった。「オシキセ」とは「おしつけ」に近いから漢字だと「押しきせ」かなと漠然と考えていたが、「御仕着せ」なんだね。つまり「制服」に近い。「一方的」のニュアンスはそこからくるのか。



 「ボブ・ディランの『スキヤキ』」と意表をつく題の文章を読む。これは「すき焼き」そのものではなく、曲としての「スキヤキ」つまり亡き坂本九の「上を向いて歩こう」である。アメリカで発売された「スキヤキ」がビルボードのランキング1位をとった1963年6月。トップを争ったのが「風に吹かれて」だった。


 86年の来日コンサートでディランは「スキヤキ」を歌った。そして「満員の観客は皆、歌いながら泣いた」という。その訳は前年の日航機事故を悼んでということに違いない。演出されたような歴史的な一コマだが、その場には当然ながら「御仕着せ」という感覚はない。共に口にできる歌の素晴らしさを実感する。


 地質の時代区分に「チバニアン」が採用されそうだと盛り上がっている。門外漢ながら目出度いには違いない。ところで…私が気になるのは、「ニアン」という部分。「時代」を表す語尾らしいがラテン語なので普通に調べていても出てこない。ただこのサイトによると「千葉時代」(ラテン語)の使い方は?がつくようだ。


 「ニアン」という響きは心地いい。無謀に日本史区分へ当てはめ「アスカニアン」「エドニアン」と遊ぶのも楽しい。そんな連想では、千葉時代は77万年前に終わってしまったのか(笑)、と千葉県民に失礼なことを言ってしまいそう。ともあれ遠大な地球時間の区切り名称も、ある意味「仕着せ」。これは光栄なことだ。

30年もっている歌

2017年11月15日 | 雑記帳

(UGO 2017ginkgo④)

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 俵万智を「まだ生きているんだ」と驚く中高生がいるらしい。それだけこの短歌は古典?になったというべきか。それは言い過ぎだが、この歌の登場は確かに驚きだった。現代詩は少しかじったが、古い詩歌の素養がない者には、本当に新しい風が吹いたような爽やかさやわくわくした気持ちが湧いたことを覚えている。


 「『~~~~~』と君が言ったから○月○日は○○○記念日」とパロディ風に歌を作らせたりしたこともあった。一年を通して作歌させた学級もあり、当時あったコンクールで数人が賞に輝いた嬉しい思い出もある。この歌の発想はもちろん、わかりやすい言葉が魅力だったが、実は「もってる歌」だと俵が書いている。


 作った本人が考えていないことを指摘する識者が多かったらしい。まず「七月六日」に、芭蕉の句にある「七夕前日の風情」を感じたと丸谷才一が語った。シェイクスピアの研究者である小田島雄志は「サラダデイズ」という言い回しがシェイクスピア作品にあり、「青春」のニュアンスについて関連性を指摘したという。


 最近では、SNS上の「いいね!」の元祖がこの歌じゃないかと指摘されたそうである。意図して選んだ語ではなくとも、耳に馴染めば言葉の背景を考えたくなったり、何かに結びつけたくなったりして、拡がっていくのが「名歌」なのか。「『この歌がいいね』と皆が言ったから三十年もったサラダ記念日」お粗末様でした。

アガワさんのアズキ

2017年11月14日 | 雑記帳
 一週遅れで観ている『陸王』。良くも悪くも池井戸ワールドだなあと感じている人も多いのではないか。半沢直樹からずっとこの路線には「配役の妙」があって、そこも面白さの一つである。落語家やお笑い芸人だけでなく、おっ意外という抜擢がある。今回はなんといってもアガワさん、阿川佐和子ではなかろうか。


 その件をアガワさんが新潮社『波』の連載で書いている。本人言うところの「持って生まれた覗きたい癖」ゆえに引き受けたのだろうが、初経験のドタバタが面白く可笑しく描かれている。役所広司演じる主人公の仕事上の相棒という役どころ、主人公の妻役が檀ふみなので、二人の関係と境遇(笑)において絶妙な配役だ。


 連載のタイトルが「やっぱり残るは食欲」。これは檀との共著「ああ言えばこう食う」「太ったんでないの」の路線で、食べ物の話題も当然登場する。ドラマ撮影への差し入れ、おやつのことが書かれているわけだが、その流れでよく描かれる阿川家の家族、特に父親の性癖に文章が展開していき、ある文が目に留まった。


 「父はときどき思い出したように、『小豆を炊いてほしい』と母にせがむことがあった。」…「小豆を炊く」という表現は、今まであまり目にした記憶がないような…。去年から時々小豆が食べたくて、キッチンに立ったのだが、それは「煮る」であり、ネット検索するときもその語句で調べ、調理法を確認した記憶がある。



 改めて調べると「炊く」の表記も散見する。普通「米飯」に使われるが、その意味で小豆を煮ることは近いのかもしれない。一番難しいのは水加減、火加減であり、その見極めが味を決する。「豆」全般に言えるだろう。どのポイントでどんな加減をするかが「炊く」には込められる。それは人間の生き方にも通ずる。

批評の場を保障する

2017年11月13日 | 読書

(UGO 2017ginkgo③)

 ずいぶんと印象的な総選挙だったが、過ぎてしまうと妙に醒めてしまった感もする。選挙後の報道、論評で考えさせられた記事があった。地元紙に載った「本県、期日前投票率日本一」の実状、塩野七生の「総選挙を観戦して」の見識、そして、橋本治がある連載に「批評のポジション」と題して書いた下記のことだ。

Volume85
 「現実はいつでもいい加減で、だからこそ『非現実的な発言』である批評が意味を持つ。『批評は現実と関わらなきゃいけないんじゃないか?』と思った瞬間、批評は力を失うし、失った。批評は批評で、現実とは別次元にあることによって現実と絡み合う。」


 世の中を良くしたい、生活を向上させたいという願いを持って、様々な立場の多くの人が投票行動をする。
 そのための一つの考えとして「日本でも二大政党制を」という声が挙がるのは、自然なことだ。
 しかし「二大」の中身がもはや「保守対革新」でないことは明らかだ。そうなると、いわゆるリベラルも含んだ「革新」の向かう先は決まってきたように思う。

 初めから「批評家に一票を投じよう」と考える人はいないかもしれない。
 しかし、常に現実的であることによって、世の中がどう進むか、それは多くの人を幸せにするのか、という問いもまた多くの人が抱えていることではないだろうか。

 ひと月も経たないうちに、粛々と進められていく国内外のいろいろなことについて不安に思う人もいるし、頼もしく感じる人もいるだろう。

 ただ絶対に守らなければならないのは、「批評の場の保障」ということだ。
 民主主義の根幹といっていい。

 それを封じ込めようとしている動きは何を意味するか、きちんと目を凝らさなければいけない。

「ノーテンキ」と決め込もう

2017年11月12日 | 雑記帳

(UGO 2017ginkgo②)

 昨日、「能」「脳」「悩」と立て続けに書いていたら、ふと「ノーテンキ」というコトバが浮かんできた。意味はほぼわかる。漢字は「能天気」が一般的のようだが、PCの変換では他に「脳天気」「能転気」の二つの書き方が候補である。「ノー・テンキ」なのか、「ノーテン・キ」なのか。これは前者で異論はないようだ。


 意味を確認すると「軽薄で向こうみずなさま。なまいきなさま。また、物事を深く考えないさま」(広辞苑)とある。語源は普通の辞典には載っておらず、ネット検索に頼ってみるが、どうにも不確かな記述に留まっている。多数なのは「頭の中がお天気(晴れ)のように澄み渡って、真っ白」から来ている説のようだ。

 代表的なサイトはこちら


 意味解説ブログ


 道浦俊彦 とっておきの話


 面白い語源由来辞典


 「脳+天気」説をとれば、結局「無悩力」とは、いかにノーテンキに過ごせるかが問われている。他者から発せられるその言葉は、ある意味「軽さ」の極致である。自分で感じれば、頭の中が澄んでいる気持ちよさにもつながるわけだし…。とこんなことを書いていること自体ノーテンキという結びになるわけですよ。

「ムノウ」への道、どうせ

2017年11月11日 | 読書
 どうしてこんな見間違いをしたのか。新書をまとめて数冊買おうとしたとき、背表紙を見て「ムノウリョク」と読んだ。「〇〇力」と題する本は巷にあふれているが、「無力」いや「無力」まで取り上げられるか…と、そこで既に目を離してしまったに違いない、家へ帰って改めてみて、ああそうだったかと苦笑した。

2017読了114
 『無悩力』(武田双雲  小学館新書)



(UGO 2017ginkgo①)

 「ムノウ」→「無能」→「無脳」→「無悩」という流れだったか。そういえば昔、つげ義春の「無能の人」という作品があった。漫画も見たし、竹中直人が作った映画も観た記憶がある。主人公の石を売る場面が頭に残っている。「能がない」という慣用句はこの頃使われないが、これほど端的に評価する言葉も珍しい。


 「能」は「脳」からの指令で発揮できるものだろう。だから「無脳」だったら「無能」は当然だ。では「悩」の方はどうだろうか。これだってやはり「脳」からくる。「無脳」であればやはり「無悩」なのだ。結局のところ、「能」も「悩」も「脳」に支配されている。全てのことは「脳」の使い方一つ。「力」はそこにある。


 と、あまり強調すると唯脳論みたいなイメージだが、読んだのは「無悩力」。どうしたら悩みを無くすことができるか、という話だ。指折りのポジィティブ有名人である書家武田双雲が挙げるポイントはたくさんあるが、個人的に心に残ったのは「脱力」「外部環境に自分の機嫌を預けない」「受け入れる」ことである。


 頻出している語は「自己肯定感」であり、おそらくこの手の本では定番とも言える。それを強める一番の心がけはこの一節ではないか…「人間って『悩みたい生き物』なのです」。そんなふうに、達観までいかなくとも一歩離れることが「無悩」への道。どうせたどり着かないから、楽しく行こうぜ!という精神だろう。

豪さん、散歩終わりましたよ

2017年11月10日 | 雑記帳
 今週の「プロフェッショナル仕事の流儀」は、「大相撲 裏方スペシャル」と題して、行司、呼び出し、床山の各々のトップを取り上げたものだった。伝統的かつ序列の厳しい世界にあって頂点に立つ人たちに共通して語られるのは、やはり「信念」だ。才能の有無はともかく愚直に重ねることでしか得られない地位だ。


 スポットの当たりにくい仕事のように思うが、国技館にいくと行司や呼び出し個人に対する声援が聞こえたりして面白い。確かに相撲中継でも見続けていると、それぞれの癖がわかったり、なんとなく好みの声や裁き方なども感じたりするものだ。そうした表面に出ない苦労や実生活など、目の付け所はなかなかだ。


 立行司のプレッシャーとはいかほどだろうか。番組でも取り上げられた一昨年の「差し違え問題」は確かに記憶がある。一口に「責任」と言っても、「本身(本物の刀)」を受け継ぐ者に課せられる重さはなかなか想像がつかない。どんなに盛り上がる取組であっても「冷めた目で」と語った式守伊之助の顔は迫力があった。


 先週たまたま見たBSフジで「感動!大相撲がっぷり総見」という番組も放送されていた。民放ゆえなのか、MCとして登場した朝日山親方(元・琴錦)はずいぶんと口がなめらかで、驚いてしまった。あんな調子で相撲が語られることはめったにない。社交性が高く、物怖じせず面白いが、ちょっとだけ軽くも感じる。



 口がなめらかと言えば、本県出身の豪風も負けないが、なんとこの番組で「豪さんぽ」というコーナーがあったことに驚いた。コミュニケーション能力の高さが証明(笑)された。その個性で相撲を盛り上げてほしい。もっとも勝負には関係ないが…。いよいよ日曜から九州場所。真の意味での「大相撲」を期待している。

「下り坂」の下り方

2017年11月09日 | 読書
 「しんがりのリーダーシップ」という語を知ったのは、月刊誌『本』の平田オリザの連載だ。その時の感想メモを残してある。→「出でよ、しんがりのリーダー」。自分はそう出来たか、甚だ自信のない幕切れだった。しかし、その考え方は「今」を見る大きな視点でもある。連載がまとめられた新書を改めて読み直す。



2017読了113
 『下り坂をそろそろと下る』(平田オリザ  講談社現代新書)


 著者が序章で書くように、「『里山資本主義』(角川新書)の文化版のようなもの」というイメージが確かにある。経済や雇用だけで、私たちが今抱えている問題が解決できるだろうか。価値観に深くかかわることでなかなか容易ではないが、著者は「いまの少子化対策に最も欠けている部分」として次の事柄を挙げている。

 子育て中のお母さんが、昼間に、子どもを保育所に預けて芝居や映画を観に行っても、後ろ指をさされない社会を作ること。


 そこにたどり着くためには、いくつもクリアしなければならない問題がある。雇用や給与という経済政策だけでは駄目だろう。文化政策に関わること、職場環境のこと、何より社会全体に浸透している競争や排除の論理から抜け出すこと…。著者はそのための「コミュニケーションデザイン・教育」を強調している。


 演劇教育を中心に多くの文化振興に携わっている著者は、その場を都会ではなく四国や九州、近畿、東北などに広げている。「まちづくり」「まちおこし」のために文化政策の充実を訴えるが、そのセンスを一番重要視している。単なるイベントづくりとは違う、地元肯定感を生かした創造性、問題解決能力かと思う。


 情報化社会は、地方に住む者のハンディを時々忘れそうにさせる。しかし結局資本や文化的搾取が行われていることに変わりない。賑わいを求めて中央志向の有名店を集める発想から抜け出られない街もある。著者がいう「文化の自己決定能力」を育てるには、最近強調されない「本物のふるさと教育」が必要だろう。

二回目からクスリ(二階から目薬)

2017年11月08日 | 読書

(UGO 2017.11.6③)

 先日読了した『ことわざおじさん』(山口タオ ポプラ社)の面白さをもう少し書いてみたい。

 「ことわざパロデイ」がいくつかの解釈パターンができることに気づいた。

例1
原 作「犬も歩けば棒にあたる」
parody「犬も一日中歩けば、ぼーっとする

 原作は、積極的に動いたり外に出たりすれば幸運(もしくは災難)に出逢うという意。パロは、積極的に動き続ければかなり疲れるということ。
 いわば対蹠的(物事が正反対)な関係と言っていいし、また「やりすぎ厳禁」という歯止め効果を狙う句とも言える。

類似句「スズメ百まで踊り忘れず」→「スズメ百まで踊り過ぎではないか


例2
原 作「果報は寝て待て」
parody「あほうは寝てます

 これも例1と似ているが、原作をかなり批判的な目で見ている。
 つまり、いい知らせは自然にやってくるからあせらず待て、と考えているのは「阿呆」。動かない者への批判、嘲笑的な意味合いを感ずる。

類似句「棚からぼた餅」→「激辛ぼち餅


例3
原 作「絵に描いた餅」
parody「絵に描いたモチベーション

 これは類似系というか、現代的な新解釈だ。
 原作は、立派そうに見えるが実際には役に立たないものを指している。
 「餅」を「モチベーション」と言い換えると、実に今風で、若者に(だけではないか)ありがちな状態を示すではないか。
 つまり「長続きしない」。根拠のない自信を持つこともある面で評価できるが、こう言われてはぐさっとくる。

類似句「天災は忘れた頃にやってくる」→「返済は忘れた頃にやってくる



 同系はあまりないが、「柳に風」→「柳に『なぜ?』」が、なかなかシュールでイチ押しである。
 
 原作からの意味とかなりかけ離れるが、答えは風に吹かれているというイメージが心地よい。