すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

立冬に知恵を働かす

2017年11月07日 | 雑記帳
 今日は立冬。昨日からいわゆる小春日和が続いている。天気予報をみると徐々に崩れてくるようで、もうすぐ冬の気配となろう。昨夜、友人の一周忌の日だったので、親しい仲間とともに軽く一献傾けた。思い出を語ると涙腺を刺激しそうで懐かしい話はせず、遺影を前に世間話と内輪話をして一緒に笑ってもらった。


(UGO 2017.11.6②)

 病気や通院自慢は、もはや50代を越えると普通だと思うが、60を越すとより深刻だ。いかに自分が薬を飲んでいるか、こんな病名をつけられたか語りたいのは、同情がほしいのか、それとも不利さをアピールしつつそれでもなんとかなっている強さの見せつけか…いずれにしても「加齢」を味方につける発想はない。


 今日は「知恵の日」でもあるようだ(朝日新聞社が1988(昭和63)年、『朝日現代用語 知恵蔵』発刊の時に制定)。加齢を味方につけるという発想はできないものか…と考えていたら、まずは「叶わぬ敵と自覚する」ことだと思った。こればかりはどんな作戦、奇襲をしても攻略できない。従って「敵対視」しないこと。


 つまり「降参」と白旗を上げて、「お味方いたします」と言えばいいのではないか。実際は味方というより、「家来」になるのである。さすれば、加齢将軍に気に入られるような働きをせねばならぬ、いかなる功績を上げれば将軍様はお気に召すか、武功か、謀による調略か、献上品か…いったい、敵はどこにいるんだ!


 と、つい妄想モードになってしまった。現実的には身体やメンタル面を養生していく心がけか。摂生や保養が大事なのは言うまでもないが、それだけではない。鴨長明は方丈記に「つねにありき、つねに働くは、養生なるべし」と記す。やはり歩く、身体を動かすことなのだ。立冬に縮こまらないようにと亡き友に誓う。

獺祭部屋で読んでいる

2017年11月06日 | 読書
 乱読はいつもだが、改めて「らんどく」と辞書をめくると「濫読」という書き方もある。なんとなく格好いいと思いつつ、濫読の類語を見ていたら、「読み漁り」などに混じって、なんとあの「獺祭」という語が…。そうかあ。「ひろげちらかす」意味から通ずるか。正岡子規ではないが、まさに獺祭部屋になりつつある。


(UGO 2017.11.6①)

2017読了111
 『森は知っている』(吉田修一  幻冬舎文庫)


 久しぶりの吉田修一読み。
 諜報機関の訓練を受け、高校生活の裏でその実際の活動をする17歳の主人公が登場する。
 こういうサスペンス仕立ては珍しいのではないか。映画にもドラマにもなりそうな展開だ。

 面白さとともに、二つの怖ろしさが迫ってくる作品だった。
 一つは主人公の生い立ちに関すること。虐待被害による人格形成の怖さだ。
 もう一つは水道事業の民間委託…よく知られている某国による日本の土地買い占めはその可能性も秘めていて、少しでも実際に進行しているとしたら真っ青だ。


2017読了112
 『ことわざおじさん』(山口タオ  ポプラ社)


 「ことわざパロディ」というジャンルだ。
 「おじさん」とは、いわゆる中高年男子が言いそうなダジャレと通ずるからだ。
 「言って、吉と出るか凶と出るか、わからない。(略)そのギャンブル性がおじさんを虜にするのかもしれない」とある。
 
 確かに、ここに収められた作を口に出したら「一斉にひかれる」要素も十分だ。
 例えば「思い立ったが、休日」「サルも木から、愚痴る」など、かなりひかれそうである。
 
 でも状況を想像してみると、結構使えそうと思うのは、私もおじさんだから。

カロリーを語るなかれ

2017年11月05日 | 雑記帳
 食生活管理(笑)の意味で、時々昼食をカメラに収めている。
 
 いつものごとくどうしても麺生活が多い。
 ラーメン、うどん、そば、がランキング上位で、その後焼きそば、季節もの(冷中、冷麺など)が続くラインナップである。

 パスタいわゆるスパゲッティも好きなのだが、いかんせんカロリーが高いという恐怖感があり…ちょっと控え気味で…


 と、その反動が出ると、こうなる。



 二色パスタである。
 二山盛りである。
 二味対決である。

 何が「カロリーが高い」だっ。と我ながら呆れる。



 続けてデータをみていたら、あっと、こんな写真もあった。



 飯山によって分けられている二つは水質、いや辛味が違う。

 辛口と大辛である。

 気に入っている業務用レトルトカレーがあり、突然食べたくなる折に重宝している。

 なんとなくダムカレーである。
 夏野菜御名残カレーである。
 辛味ドッキングカレーともいう。

 何が「カロリーが高い」だっ。と我ながら自嘲しかない。


 仕方ない、両方から攻めて、喰いまくれ!

歌は人の志を運ぶ

2017年11月04日 | 読書
 「正義の味方と言えば」と問われて誰を挙げるか。当然年齢層で大きく分かれると思う。しかし60代以上であれば確実に上位と思われるのが「月光仮面」だ。この格好の良さは、昭和30年代に幼少期を過ごしている者にとっては格別ではないか。その勇姿の写真とはミスマッチするような題がつけられた一冊を見つけた。

2017読了110
 『おふくろさんよ 語り継ぎたい日本人のこころ』(川内康範  マガジンハウス)




 筆者の川内康範について知っているならば、なぜこの題がつけられたかは簡単に想像がつく。この本の出版は10年前、ちょうどあの歌手森進一との「おふくろさん騒動」があった年である。前書きで触れている。それがあってのこの書名であるが、また著者の原点も「おふくろの愛」にあることは十分に伝わってきた。


 初めて知ったが川内は佐藤栄作政権以降の代々首相の顧問であった。つまりブレーンであり、フィクサーでもあったらしい。それを知って『月光仮面は誰でしょう』の詞を読みかえすと感慨深い。「不戦の意志の表明」を強く訴え、当時の政治家たちの「腑抜け」ぶりをこき下ろしている。存命ならば、何を語ったか。


 月光仮面にはテーマがあり、それはキャッチコピー「憎むな、殺すな、赦しましょう」となった。ポイントは「赦す」。普通「ゆるす」と言えば「許す」だろう。しかし許可するといったいわば上から目線を嫌い「赦」を用いたことを、今の世に照らし合わせ考えると「自己責任」という語の、あまりの狭小さを痛感する。


 良くも悪くも昭和的ロマンに生きた人物だ。それはやはり政治の「助っ人」としてより、文化、芸能での活躍が大きい。「まんが日本昔話」監修なども大きな仕事と言える。しかしやはり、歌謡曲における光がまぶしい。「歌は人の志を運ぶ船である」と結んだことを思うと、「おふくろさん」の詞はつくづく素晴らしい。

「スタンダード」に寄り掛かるな

2017年11月03日 | 教育ノート
 違和感を抱いていたので、その言葉をけして自分からは言い出したことはなかった。考え方を否定するものではないが、それで覆われていく傾向を警戒していた。だからあえて「目の前の子を見て」「自分の好きなこと、得意なことを生かして」を強調してきたつもりだ。今、改めて振り返るとやはり少し怖い言葉だ。



 たまたまツイッターで紹介されていて、やはり本県教育界がその一端を担っていると考えている人もいたか、と思った。→授業・生活指導…「一律に」学校現場で広がるスタンダード。もちろん以前から私と同様なことを考えていた方も少なくないはずだ。こんな文章を書く人もいた→教育「スタンダード」の違和感


 経営には方針や目標が必要であることは言うまでもない。そのためのキーワード、スローガンは浸透のために有効になる。しかし下種の勘繰りと言われそうだが、上に立つ者が自らのアピールを強めるだけで、底が浅いという例は、枚挙に遑がない。むろんそこに悪意はないのだが、少し卑しい顔つきが覗いたりする。


 教職に就いた頃、傾倒していた数学者遠山啓の文章に「教師はペンキ屋ではない」という一節があった。(念のためペンキ屋という職業を愚弄しているわけではない)。子どもを一律に塗り込めるような教育に対する批判である。それはその後、様々な運動に学んだ自分にとって、手放してはならないと決めた警句だった。


 「〇校スタンダード」という言い方が機能している好例はあるだろう。しかし画一的な傾向に陥っている所はないのか。公教育である限り標準、基準は当然だが、スタンダードを幹とするなら、その根の部分は何なのか常に明確にし、何層もの働きかけによって太くするべきだ。けして寄り掛かるためのものではない。

好きになる能力の結晶

2017年11月02日 | 読書
 一時期「教育はサービスか」といった問いが雑誌等に載ることがあり、例のごとく語義を確かめたことがあったように思う。まあ予想されるように広義、狭義のとらえ方があり、要は教育従事者としての姿勢如何ということになる。ただ、英訳としての「もてなし」「値引き」には該当させない心構えは必要だなと思った。



2017読了109
 『サービスの達人たち』(野地秩嘉  新潮文庫)


 ロングセラーといえるノンフィクション。一部は雑誌等で読んでいるかもしれない。NHK『プロフェッショナル仕事の流儀』が始まったのが2006年なので、この著書はヒントになっているのではないだろうか。「モノづくり」とは違うけれど、徹底的に「サービス」の現場を突き詰めてみれば、そこでも何かが作られる。


 ウィスキーのブレンダーを取り上げた文章がある。「中学を出て工場に勤めた男が仕事を通して磨かれた姿がそこにはある。仕事というのは長い間、一生懸命にやっていれば人格を磨くものだということの典型が彼だった。」この一節から考えると、サービスは相手に向ける行為であると同時に、自身への染み込みが強い。


 さてこれらの話の一つの側面、それは本を書くよう奨めたある編集者の言葉にある。「サービス業のプロを描くということは都市を描く、都市に住む人たちのセンスを表現すること」…例えば、ゲイバーのホステス、興行師、靴磨き…都市空間によって成立し磨かれた文化、それは地方人には届かない、眩い光でもある。


 酒井順子による解説が読み応えがある。「日本人が本当に好きなのは、技術によるサービスではなく、『そうせずにはいられない』から行われるサービス」という言葉は、登場したプロたちから導き出された。そして著者自身との共通点を探る中で、納得の結論に達する。「『好きになる能力』を持っていることなのです。

妄想の暴走に満足

2017年11月01日 | 雑記帳


 立川志の輔の高座を2年ぶりに聴く。秋田市では定期的な独演会があるのだが、今まで曜日が合わないこともあって初参加。毎年文化会館大ホールを満員にするのだからさすがのビックネームだ。個人的には、同じ集客力があっても某日曜夕方番組に出る噺家たちとはレベルが違うと思っている。今回も大満足だった。


 前座等の出番もあったが6時半開始で予定30分オーバーの9時15分終了。体調を崩していたらしいが、それを感じさせない熱演だった。マクラで選挙速報のことを取り上げ「皆さん、次の選挙では出口調査で嘘をついて、報道を混乱させましょう」と呼び掛けた。放送局主催の高座で語る所が、ピリッと効いている。


 長いマクラはいつものことだが、今回は特に冴えていた。おそらく多くの噺家が取り上げただろう「忖度」のこと。日常風景に存する忖度の描き方が本当に上手い。考えればこの「おしはかること」が企業の団結力や上昇志向を助け、日本の発展を支えてきた。それがある意味、政治家によって汚されたのかもしれない。


 演目は古典で一席目は「ちりとてちん」。見事な食べっぷり、嗅ぎっぷりだった。二席目は「宿屋の富」。滑稽噺に登場する定番の一つに「妄想」があるが、こうした場面を演じさせれば志の輔は絶品である。妄想の暴走ぶりをあそこまで感じさせてくれる芸は、きっと全体を見渡せるもう一つの鋭い目があってこそだろう。