すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

人の世が面白くなる極意

2018年11月08日 | 読書
 その話はこう始まる。「『幸福になる』という本を買った」。手を伸ばした訳は、本の帯の「謳い文句に惹かれた」のである。そこに書かれてあるのは、たったの四文字「かならず」。しかも、その帯は真っ白。どうだろう。話者に限らず、その本の題名がどんなものであれ、買ってみたくなる。読者は読みたくなってくる。


2018読了104
 『という、はなし』(吉田篤弘&フジモトマサル絵  ちくま文庫)



 24の掌編がフジモトマサルのイラストとともに収められている。言うまでもなく、どれも味わい深い。文庫版は一昨年発刊だが、もともとは2006年刊だそうだ。雑誌『ちくま』の連載は、文章にイラストをつけるごく普通のパターンだけでなく、一枚のイラストから吉田が作話していくという形もあった。そのあたりの仕掛けは後書きに詳しい。



 全体に共通しているモチーフは「読書」と言える。これほど様々な視点から読書について、あれこれ想を巡らしている本はめったにない。吉田が小説家だけでなく本の装丁を手掛けるデザイナーであることもその理由だろう。そして村上春樹作品も描く印象的なフジモトのイラストが、また独特な雰囲気を伝える。気軽に、しかもしみじみ読める。


 一番のお気に入りは、冒頭に書いた『かならず』だが、それ以外もまさに吉田ワールドが展開する。『背中合わせ』という、書斎で二人?が読書するイラストをもとにした作品の文中に気の利いた一節がある。「俺たちは何を知っていて、何を知らないのか。それをいちばん手っ取り早く確かめられるのは本を読むことだった」没頭の青春が見える。


 書名『という、はなし』は、作家の父の口癖だった。そのことを書いた「文庫版のためのあとがき」が興味深い。幼い頃から、大人たちが集まり「たわいのない話」に興じる様子に耳を傾けた作家は、こう括る。「さして、面白くないことを、どうやって楽しむかーーそこに気づいたときから、人の世はいよいよ面白くなってくる」…極意である。

立冬に、腰を立てる

2018年11月07日 | 雑記帳
 昨年と同様に、昨夜は亡き友の供養という形で一献設けた。最近、相次いで顔見知りの不幸があったので、少し気が晴れず思い巡らしている。いずれ生き死にの事はどうにもならないとは言え、もし何かを先送りしてきたツケが加担しているとすれば、自省は大切だと改めて思う。


 秋初めは天候に恵まれなかったが、10月以降は比較的穏やかだった気がする。紅葉もよく、玄関のヤマボウシがこんなに色づいた年もなかった。ただ考えればこれも人間様の勝手な見方で、樹木にしてみればその年の環境に応じて、コントロールしているのだ。自然に逆らわずに…。



 それをああだこうだと評価するより、あくまで今の良さに目をつけた方がよいと、達観できるわけでもないのに、無理矢理頭の中で繰り返している。今日参加を請われた会議ではある分野の行動計画策定に関わることになった。しかし、なんと世の中は複雑に絡み合い難しいことか。


 「改革」「改善」「高揚」…そこに現状の良さを生かす視点があるにしても、おそらく何かを否定しなければ実現できない要求である。そして多くの場合、もともと持っている良さは軽視され、変化していく。それが世の倣いか。今を丸ごと認め、貫くことで生まれるものはないか。


 立冬。「立つ」そのものに「新しい月、季節が来る」との意味がある。家では立ち上がる際のヨッコラショという声に苦笑する。しかし、月日は黙っていても「立つ」。無為に過ごしてよいと諦めはしないが、自然にすっくと居られる姿勢だけを維持していれば、それでよいではないか。

落葉の季節にキニナル

2018年11月06日 | 読書
 今月号の『波』(新潮社)は、バラエティがあって読み応えがあった。
 考えるきっかけになる「」として、覚書を載せておきたい。


Volume126
 「今の社会はひたすら華やかで写真映えするような『ハレ』ばかり求めてはいないでしょうか。日々のあたりまえとなって、退屈だとさえ感じる『ケ』こそ、実は時間を経ると貴重で得難いものです。」
 (グラフィックデザイナー佐藤卓)

 「ケの美」ということ。まさに考えるべき、いや淡々と実行すべきこと。


Volume127
 「ネットは道具として使うことに徹するのをお勧めしますね。思想だとか、感情だとかを乗っけなければ、こんなに便利なツールはない。」
 (ウェブ編集者 中川淳一郎)

 ネットは「バカと暇人のもの」にしないためには、この割切り方が大事なんだね。



Volume128
 「表現者はそれぞれに異なったアドバンテージがあるのだから、わざわざ砲座を寄せ合ったりせずに、きちんと自分の場所から共通の敵を撃てばいい。」
 (作家 五木寛之)

 共通の敵をどう認識するか難しくなっているけれど、安易な同調には注意深くありたい。


Volume129
 「今、流行りの『おもてなし』も、その目的がお金もうけにつながると、血が通わなくなります。大きなお金はきっちりといただいておいて小さなところを無償でやっても『もてなす』という人間の原初的な行為には至らないように思います。」
 (料理研究家 土井善晴)

 高級〇〇では、何が高級と言えるんだ!それを見極める力こそ。

突きつけた指の先に

2018年11月05日 | 読書
 この小説を読みふと思い出したことがある。我が子が親を超えていく時は誰もが通る道だ。私がそれを経験したのは10年ほど前だった。その子本人に関わる結果に対する受けとめ方を話していて、親の自分の方が幼い考えを持っていると感じた時だ。一面では嬉しく感じながら、複雑な心境になったことを覚えている。



2018読了103
 『まともな家の子供はいない』(津村記久子  ちくま文庫)


 自分の家族や周囲に対して「怒れる中学3年生のひと夏」を描いた表題作と、スピンオフ的に同級生らの物語が書かれた一篇が収められている。読み始めてしばらくは、不快な感じが続いたが、だんだんと主人公である女子中学生の怒りに、馴染んでいった。現代の40代を中心とした親の世代に対して、ある面痛烈に滅茶苦茶に斬り込んでいく。


 受験を間近に塾へ通う主人公らが、夏休み期間中の宿題をいかにラクに仕上げられるかと心を砕く様子には、「生き凌ぐ」印象を持ってしまう。凌いでなんとかなる日常があることによって、人は何を学ぶか。この点は興味深い。「セキコは、力ない笑い声をたてながら、どこの家もどいつの親も、と世界に向かって人差し指を突きつけたくなる


 突きつけた指の先に何があるのか、おそらくそれを知るためには少し時間がかかる。しかしその時間の経過によって、突きつけるエネルギーが力を失う場合もある。感受性の強い思春期の思いをどう昇華させるかは、人の生き方を左右するといってもいいだろう。変化の激しい社会の中で、維持すべき心根はやはり幼児期の培いにあるだろうか。


 解説で臨床心理士の岩宮恵子が次のように書いた。「いつまでも若いということが評価される社会では、子どもっぽい意識のままで生きていくことも容認されやすく、『大人の責任』から逃げ出しやすくなっているような気がする」。総活躍社会と称して打ち出される政策は、どこか成熟と離れたイメージを伴う。総幼児化社会に陥ってはいけない。

フェイクを撥ねつけて

2018年11月04日 | 雑記帳
 ああこれはフェイクではないのか…人間とは勝手なもので、日頃批判しながら、自分に都合が悪いとそんなふうに思ってしまう。昨夜、町内会で聞いた話がにわかに信じられなかったし、話した本人も不確かな様子だったので、帰宅後少し調べた。中味は明かさないが確かに載っていて、思わず声を漏らしてしまった。



 さて、先月末NHKの土曜ドラマ枠で放送された『フェイクニュース』は、なかなか見所があった。現在のネットをめぐる事情がよくわかったし、そこに群がり、様々な悪意を持ったり追い込まれたりする人間の弱さや醜さを的確にとらえていた。この脚本家、やるなと感じた。「野木亜紀子」…どこかで見た名前だ。


 『重版出来!』『逃げるは恥だが役に立つ』だったか。なるほど。話題になった『アンナチュラル』もそうか。やはり上手いし、勢いづいている人は違う。「今」の切り取り方とでも言えばいいのだろうか。これは情報収集力というより感性なのだ。どんな場所でどんな台詞を言わせるか。心身の反応のスイッチを知っている。


 よく情報のアンテナなどという言い方があるが、今どきその扱い方は要注意であろう。多くを受け入れることを感度が良いとすれば、もはやそれには限界がある。今、我々が受け留めたいのは、より深い思索に導くような言葉や行動ではないか。いわば情報の洪水状態に流されない意識を持つことが、もっとも肝要だ。


 直面した現実以外であれば、糸井重里のこの言葉が基準だ。「ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、『よりスキャンダラスでないほう』を選びます。『より脅かしてないほう』を選びます。『より正義を語らないほう』を選びます。『より失礼でないほう』を選びます。そして『よりユーモアのあるほう』を選びます。

もの想う冬支度前

2018年11月03日 | 雑記帳
 毎年のように高まっていく「騒ぎ」の中で、いったいハロウィンという行事を認識したのはいつだったかと思い出してみる。米国の留学生射殺事件だったか。それとも…と思いついたのが、ユーミンの『りんごのにおいと風の国』。本当に晩秋らしい響きを持つ曲だった。ぴったり。


 垣根代わりに植えていた二十数本のカイズカイブキ(と思う)を業者に頼みバッサリ短くした。冬囲いが出来ないので雪が上部に溜まるのを防ぐためだ。処理してから半月程経つが、寒くなる時期にも関わらず、植物はやはり陽の当たる方、当たる方へと葉を伸ばすと改めて思う。



 先日のくすのきしげのり氏の講演、質疑での面白い言葉を一つ思い出した。執筆された作品を「根も葉もあるフィクション」と表現された。そこには事実に基づいた見方があり、対象に向けての願いも込められる。物語にとって必須な根と葉だ。寒くなると、見つめるにいい時期だ。


 以前、ペンキを通販で買ったことを書いた気がする。今度は冬用のスタッドレスタイヤも注文した。どちらも近くの販売店に在庫がなく、店を通しての注文より、直接の方が安価になる。便利で無駄がないようだが、同時に買い物する楽しみが減ってきた。これも一つの冬なのか。


 『ためしてガッテン』1000回記念は「免疫力」が特集されていた。自称健康オタクはやはりという思いにとらわれた。免疫力を高めるためにはリラックスが大事と誰しも思うが、それだけでは駄目で、負荷が掛かっている時に力の素が育ち、弛緩によって放たれ効果を発揮するのだ。

晩秋のB面ナンバー

2018年11月02日 | 読書
 リリーフランキーが注目されるようになってからずいぶん経つが、それ以前からある雑誌の連載がお気に入りで、妙にシンパシーを感じていた。
 だから、個人的名言録である「キニナルキ」の「B面」における主役的な存在と言ってもいい。
 ここしばらくご無沙汰していたので、二つ拾ってみた。


Volume124
 「人がほぼ聞き流しているところが気になるんです」

 是枝裕和監督との対談での言葉。
 リリーが、悪役で出演した映画で人を切り刻み焼却炉に放り込む時と、別の映画で居酒屋のサラダ注文の時の、セリフを言う感じがあまり変わらないと、是枝が指摘したときにそんなふうに言った。

 映画として見た時「本筋とちょっとずれたところでの言い方」に注意を払っていることは、かなり深いような気がする。
 「神は細部に宿る」という名言を持ち出すまでもないだろうが、人間とは、人間の表現とはそんなものだと納得する。



Volume125
 「のりしろが、人間を正しい道へ導くんだよ」

 The Coversのコーナーである星屑スキャットとの会話で、リリーが話した一言。
 これは直接的な言葉かけでなく、一歩引いた表現をすることで、人の心を動かしていくという意味合いで使われた。

 もう一つ連想したことは、人間そのものにも「のりしろ」があるかもしれないということ。(のびしろとはよく言うが、全然違う)

 結局どんな形であれ、人は誰かとつながらねば生きていくことはできない。
 その部分の広さ、狭さ、そして質の違いに、少なくとも個性が出ることだろう。そこがもしかしたら「正しい道」につながるのではないかと感じた。
 少なくとも、自分ののりしろが汚れていないようにしなければ、と晩秋に思い巡らす。

現場愛にあふれる姿

2018年11月01日 | 雑記帳
 町図書館主催「小さな朗読コンサート」が開かれ、児童文学作家のくすのきしげのり氏の話を聴いた。学校から引率され中学1年生が前半の朗読コンサートに参加した。生徒による朗読、作家自身の朗読も確かによかったが、小学校教員経験者であるくすのき氏の語りかけが抜群だった。現役教員に届けたい内容だった。



 中学生から仕事の話を訊かれ、自分が徳島に居て活動を続け世界中の人とつながり合って本づくりをしている点を知らせ、こんなふうに語った。「今の世の中は、クリエィティブな仕事はどこにいても出来る。秋田でもできる。だからこそ、人と会うことを大切にしてほしい」。問題を見据えた、勇気づけのある言葉だ。


 影響を受けた本について尋ねられたくすのき氏が、中学生は知らないだろうけれど、と挙げた著者は、森信三佐藤一斎だった。バックボーンを垣間見た思いがして、納得した。作品に必ず盛り込みたい要素として「子どもの笑顔」そして「信じられる大人」の二つであることに教育者としての確固たる信念を感じた。


 キャリア教育は現場でも確かに根づき、学校外でもその語が結構流布しているが、常に忘れていけない点を確かめる時間にもなった。生徒を引率してきた教師から「子どもへの声かけ」について問われたくすのき氏が、応えたことは「子どもに、将来何になりたいかと一緒に、どんな人になりたいかを問う」ことだった。


 つまり「何に」は仕事や職業を訊いているが、「どんな人に」はいわば人格を問うていると言っていい。「優しい」「人の役に立つ」「友達が多い」「父のように頑張る」…内面に持つ願いを表出させその観点で子どもを見る。そうすれば日常の些細な出来事であっても数多く評価できるはず…。現場愛にあふれた姿だった。