すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

驚きの朝食事情

2020年09月07日 | 雑記帳
 「ご飯・味噌汁・おかず」のようなしっかりした朝食を摂らなくなってから、もう20年以上は経つ。ということは、我が家では子どもたちが小学生の頃からなんとなくイメージされる「朝の食卓」風景はなかったことだな。朝食と学力の関係データを使ったりしてアピールした立場としては申し訳ない気持ちがある。


 我が家では、いくらか帰宅が遅い時でも揃って夕餉を囲んでいたし、どうしてもアルコール中心の惣菜になっていたなあ。まあそれなりに話はしたし、一番の安らぐ場であったことは間違いない。今思い出すと、結構な量を40代初めあたりまではガツガツ食べていたなあ。30代で禁煙したことの影響もあっただろうか。


 そんな日常だったから、自ずと体型管理をせねばならなくなり、では何からと優先順位を考えた時、我慢できるのは朝かという結論が出た。それでも青汁、豆乳ヨーグルト、コーヒー等と流動食(笑)は継続的に摂取したし、勤務していた時でも全く支障はなかった。人間の身体とは順応していくものだとつくづく思う。


 ただあくまで通常パターンであり、旅行等では別枠だった。だからよく出されける朝食バイキングは苦手だった。根が食いしん坊だし、つい多く盛ってしまう貧乏育ちが露骨に分かるパターンだ。結果、身体が驚いてしまうことになる。週末に某ホテルで久々に朝食らしいメニューを摂っても、やはり尋常ではなかった。



 もちろん中身に問題なし。美味しく食しつつ、味覚とは違う部署(笑)は困る場合があると再確認した。組織の仕事も同じだ…なんて理屈を語るために書き出したのではない。なんと、この朝食は無料で頂きました。今、GOTOトラベルや市宿泊補助を使うと一円も出さずに食べられる…驚きながら、色々考えています。

重箱の隅から見つめていた何か

2020年09月06日 | 教育ノート
 (前日からの続き)その「挑戦」問題は、5問で構成されていた。出した内容は、サークルでの話題を含めて、当時の自分の関心事を見事に表しているのだと思う。そっくり転記すると、こうだ。

① 国語科指導の名人と言われる野口芳宏先生が開発した読解指導のための有名な手法は何ですか?
② 中島元文部大臣は「東郷平八郎」を取り上げることに反対しましたが、その理由は何だったといわれていますか?
③ 例年のように新学期前の教育雑誌には、子どもたちに紹介したい詩として、蒔田晋治作のある長い作品が載ります。その題名は?
④ 絵の模写をさせる時、天地を逆にした絵を与える方法がありますが、これは何のためですか?
⑤ 体育同志会が開発した基礎的な泳法の名前は?




1 正解は「吹き出し方」である。国語や道徳で用いられているこの伝統的な指導技術は、野口先生が開発されたことを知り、傾倒している者として何か誇らしい気持ちになっていたのか。

2 ちょっと文章が舌足らずなことを反省。小学校の歴史教科書が「人物重視」に変わろうとしていた時期、当時の文部大臣がこだわりを見せた一件として印象深い。戦争において英雄視されている人物を取り上げることの危惧を、きちんと与党議員が持っていたのだなあ。

3 「教室はまちがうところだ」…この名詩は今も息づいているだろうか。その精神は不変だと考えるが、おそらくかなり窮屈になっている。

4 対象をよく見つめる大事さを、どのような方法で示せるか。具体的な技術として提示したいい例だ。固定観念をくずす、そのことによって「右脳」を鍛える、そんな論議もよくした。

5 ドル平泳法…これは実技と理論をきっちり学んだ一つだ。80年代の自実践の中ではやや誇れるものだ。ひたすらに子どもたちを泳がせる自分の「体力」も備わっていた。(正確には学校体育研究同志会)


 微細な技術にこだわっていたのは、子どもを動かし、考えさせ、力をつけさせたかったからだ。同時に個々の技術の持つ思想に興味を持っていた。今でも思い出せる典型的なことは、教育技術の法則化運動の提起した「ゴミの拾わせ方」に関することである。「数字を入れて、目標を示す」技術はその始まりに過ぎない。


 「ゴミを拾いなさい」から「ゴミを10個(20秒で)拾いなさい」へ。その次には「教室をきれいにします。ゴミを~~~」となる。次は目的のみとし行動を任せる。「教室をきれいにします。(20秒で)自分にできることをしなさい」。その段階を経てイメージするのは当然、それらの指導言が使われなくなることだった。

重箱の隅を見つめていた頃

2020年09月05日 | 教育ノート
 驚いた。そしてちょっぴり嬉しくもあった。調べる事柄があり閉架書庫へ入った。以前の職員録を見つけ出し必要な資料を出そうとした時、その背表紙に目がいった。「あくと」と手書きで記されている。これはもしや…と思い、取り出すと案の定かつてのサークルの冊子である。日付は1990.3.28。30年前の集約だった。



 「あくと 第5集」と表紙にはある。開くと目次、そしてメンバー10名の名前が記されていた。このうち半数は既に退職している。来春、その齢を迎える人も3人いる。この冊子自体は当然自宅にもあるので何度か目にしているが、公的な場でしかもバーコード貼り付けできちんと所蔵されていることが誇らしかった。


 当時、館長をなさっていた田口恭雄先生にはずいぶんとお世話になった。サークル全員で授業する詩の選定をお願いしたり、実践集約への感想等もいただいたりした。そんな関係で冊子を何年か続けて送付した。一冊ではあったが、こんな形で残してくださったのだなあと、今さらながら感謝の気持ちが湧いてくる。


 三十代半ば、普通なら生意気盛りを脱してもいい時期だが、ずいぶんと尖がった文章を書いていた。今読み直すとその粗さが恥ずかしい。職場でストップモーション方式による授業研究を年間通じて実施した年度だった。近隣サークルと合同研修会も立ち上げた。「重箱の隅をつつく奴」と某女性教師に非難された頃か。


 「オレがオレが」という性格ではないのだが、足並みを揃えることが美徳の本県で異質と見られたのは確かだった。それゆえか仲間を増やしたいと願っていたことは、この集約の「あとがき」の次!のページによく表れていた。冊子を贈った方々へ対して、なんと「挑戦!」と名づけた問いかけをしているではないか。
 つづく

またウルガシテしまったか

2020年09月03日 | 雑記帳
 先週末に隣市で行われた「秋田弁で地方活性化させよう」というセミナーに参加した。少人数ではあったが、その分フリートークもあってのんびりと楽しませてもらった。県内各地による方言の違いは、以前からよく感じていたことだが、講師の紹介する秋田弁にも馴染みのない語があり、それもまた興味深く聴いた。



 最近あまり使っていないなあと思わされた方言の一つに「うるがす」がある。これは「水に浸しておく」という直接的な意味の他に、「物事の進行を放っておく」という場合にもよく用いられた。この言葉が使われなくなったのは、スピード化、効率化の進む世の中と無関係ではないと改めて感じた。仕方ないことか。


 いや、語が使われなくなるという状況は、そこにあった精神が失われつつあるという意味合いを持つだろう。「うるがす」は表面的にはあまりいい行為にとられないようだが、実は水に浸す場合には、馴染ませたり柔らかくしたりする作用がある。物事の進行においても一息つき考えを深める側面があるのは確かだろう。


 食品でいえば技術的な進歩で「うるがす」必要のないものが大幅に増えた。様々な仕事上の事柄も共通するかもしれない。しかし、「スピード感をもって」が常套句のように使われる時代に、失われつつある「待つ」時間のなかにも豊かさがあるとは言えないか。「待つ=ストレス」の感覚が強くなったのはいつ頃だったか。


 と、ここまでだらだらキーボードを打ちつつ、そういえば以前も書きつけたことを思い出す。「ウルカス」は方言であるが、由緒正しい語源を持っていた。それを忘れるぐらい、頭脳をまたウルガシタままだったか。

 →ウルガシテおいたこと

「普通の人」の感覚を自分に問う

2020年09月02日 | 読書
 『ちくま』の連載「世の中ラボ」が興味深かった。斎藤美奈子による書評コーナーで、毎回テーマに沿った3冊が取り上げられる。今回は「百田尚樹の人気の秘密」。近年発刊されたそれら「百田尚樹解説本」3冊は読んでないが、いつもながら見事な切り口で、テーマに迫っていた。百田小説ファンとしては納得いく。


 百田の『永遠の0』を読んでその面白さを知ってから、次々と出される多様なモチーフの本を読み漁った。素晴らしいエンタメ作家だと思う。しかし、エッセイや歴史本?等はどこか軽薄、短絡さを感じるし、正直肌に合わない。思想的な考えはともかく、なんとなく「煽っている」感が強くて途中で満腹になるのだ。



 斎藤によれば、百田人気の第一の理由は「巧みな語り口と話のおもしろさ」。それは放送作家の面目躍如と言える。そして第二は「『普通の人』の感覚」が支えているという。この部分の引用に注目した。木村忠正という人がヤフーニュースのコメント欄を分析し、次の三つを「『普通の人』の感覚」としたと紹介してある。

(1)韓国、中国に対する憤り
(2)少数派が優遇されることへの憤り
(3)反マスコミという感情



 ヤフーニュースサイトに一日一度は訪れるが、コメント欄などめったに見ることはない。しかし、雰囲気はそれに近いようだ。自分自身「普通の人」だと思うがこの三つの感覚はどうだろう。自己点検してみよう。ずばり言えば、いずれも「ないわけではない」。ただそれを大雑把に括ってしまうと、思考停止になる。


 特に(2)は非常に難しい。正直、人はそんなふうに育てられるし、育てようとする。本を読み様々な発言をしているが、毎日口をつく言葉を丁寧に拾ってみれば、いかに多数派主義に染まっているか愕然とすることも多い。今憤りを向ける相手の顔は、もしかしたら自分ではないのか。想像する力を鈍らせてはいけない。

日本人はこう出来ている

2020年09月01日 | 読書
 今世間で起こっている様々な事象の訳が、浮かび上がってくるような一冊だったので、もう一度。

 『日本語 表と裏』(森本哲郎 新潮文庫)に書かれた卓見には恐れ入る。例えば、冒頭「日本人の身体のなかには虫が棲んでいるらしい」と始まった「虫がいい」の章は、フロイトの論まで登場させ、その無意識の領域にある「何か」をあぶりだす。「虫の居どころ」「腹の虫が納まらない」「虫唾が走る」「虫の知らせ」…


 それだけでなく、「弱虫」「泣き虫」さらには「本の虫」や「芸の虫」という言い方もする。問題は、そうした人間の根源的な実態を何故「虫」で表現したか。著者は、古事記の一節も引用しつつ、「自分の意志でどうにもならない精神や生の本能」を、虫という恐ろしく気味の悪いものにある神秘性に込めたと解釈する。



 「虫」と共通するのは「」という語であり、これは中国からの輸入であったが、非常に幅を利かせている語だ。「気のせい」の章では、膨大かつ多様にある「気」の慣用句や単語を並べながら、気は「心」と重なってないとし、もっと奥底にあり「心自体を操作している」ものと語る。言われるとそんな気になる(笑)


 この著のなかで最も印象的な一節は、先日書いた「いい加減」に通ずるが、「まあまあ」の章にある。数多くの識者が指摘する「日本人論」を総括しているように読んだ。海に囲まれているこの島国に住む日本民族が、なぜ「海洋民族」にならなかったか。これは根本的な日本人気質を考えるうえで、非常に重要な点だ。


 先月亡くなった山崎正和氏は「海岸民族」と評したらしい。海へ乗り出さず、快適な国土の中で生活を育んだ。敵との争いはあったが何らかの形で妥協し、共存する道を探った。「和」を保つために「分に安んじる」発想が沁み付き、その結果、うまくいく明日を期待しつつ、思うようにならない今日もまた知っている。