すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

わたしの願う「わ」は今も

2020年10月17日 | 雑記帳
 学級担任として最後に出した学級通信のタイトルは「わ」であった。その第1号冒頭にこんな文章を書いている。

 「わ」というと、まず思い浮かぶ漢字は「和」でしょう。それから「輪」ですね。その二つに込められた意味と「ワッ」という言葉の響きも考えて、この名前にしてみました。


 2年生5名と3年生10名の複式学級における、仲の良さと協力、驚きや発見といった意味を持たせ、新鮮な日々の展開を願った命名だった。
 様々な実践とともに思い入れは深い。


 さて、「」という字は言うまでもなく「平和」を形作る語だし「和らぐ」「和み」を表している。
 さらには「和える」という場合にも用いられ、日本人の一つの特徴としてよく挙げられる。これは、例えば小山薫堂などもよく使うように発想法のキーワードとしてとても有効ではないかと最近もよく思うことがある。

 従って「和」という字の印象度は、かなり上等部類にある。

 しかし、その語を用いて迫ってくる「圧力」に苦々しい思いをしたことがなかったか。
 あれこれ思い巡らさなくとも、すぐに数えられるほどは浮かんでくる。ただ、だんだんと鈍感になっていったことも認める。



 今般の「学術会議」の話題で、TV画面でも顔を見せた内田樹氏が「『日本習合論』ちょっと立ち読み」と題して、ブログをアップしていた。

 そこで問題視されていた「共感主義」「事大主義」、そして「和」の考え方について、肯きながら読んだ。

 最近、著書はあまり読んでいなかったので、その本をすぐに注文した(図書館に入るとしてもしばらく時間がかかりそうだし)。じっくり読み込んでみたい。

 氏はこう書いている。

 彼らがめざしている「和」なるものは、多様なものがにぎやかに混在して、自由に動き回っているうちに自然に形成される動的な「和」ではありません。そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。



 私たちが本当に大事にしなければならない「和」とは、いったいどういうものか。
 描くそのイメージは、この町や県そしてこの国の行方に直結すると言ってよいのではないか。

 私の「わ」は今でも変わっていないし、願っていることは同じと、27年も前の文章をもう一度読み直す。

これでよいのだとは思わない

2020年10月16日 | 教育ノート
 もう二十年近く前だ。隣市の大きな会場でPTAの県大会が開かれ、当時『国家の品格』でベストセラー作家となった藤原正彦氏の講演を聴いた。繰り返し語られた「一に国語、二に国語、三四がなくて、五に算数、あとは十以下」というその言葉に、「国語人」として強く背中を押されてきた。しかし、時は過ぎて…。


 教育関係の情報誌の今季号冒頭に、その藤原氏の文章があった。「これでよいのだろうか」と題されたエッセイは、長年主張してきたことがなかなか実現されず、いわば逆方向に進んでいるような状況を憂えている内容だ。英語、パソコンがますます重視され、時間的に国語教育を圧迫しているという認識を持っている。



 今現在、学校現場に居ない者が内情を語ることは憚られる。ただ現職中からその傾向があったことは認めざるを得ない。もちろん、国語教育の質という問題を抜きに議論はできないことだ。氏が最も重視する「読書」に関して、国語教科書で見る限りは、かなり意識されて編集されてきたように思う。しかし、現実は…


 「朝の読書」で一時全国的に盛り上がった「読書の時間」は、一部の学校を除きかなり変節してしまっているのが現状だろう。それは全国学習状況調査の実施などが影響したし、「グローバル教育」の名のもとに次々に導入される「新奇」な活動への対応に振り回された感もある。近視眼的になった現場が透けてみえる。


 「初等教育の目標は、何と言っても『自ら本に手を延ばす子を育てる』ことにつきる」という氏の考え方に、まだ共感を覚える自分がいる。正面きって携わらなくとも、条件整備や支援態勢の構築に関わる仕事の一役を担っているわけだから、アピールを続けていきたい。何を優先するか…またネジを巻いておこう。

「大曲者!」たちから学ぶ

2020年10月15日 | 読書
 「クセモノ」という言葉を最初に聞いたのは、きっと幼い頃にテレビで時代劇を見ていたときではないだろうか。天井裏か床下に潜んでいる者の気配を知り「クセモノ!」と叫ぶ場面は、昔よくあったように思う。さて改めてその語を調べてみると、結構多義であることがわかる。広辞苑には六項目が記されていた。

 簡略に記すと
①ひとくせある人物
②異常な能力をそなえた人間
③妙手。やり手
④えたいの知れないもの。用心すべきもの。
⑤ばけもの。怪物
⑥あやしい者。不審な者。

 「人」の特性を表すが、「表面には表れない何かがあって、用心しなくてはならないこと」(明鏡国語辞典)という意味もあり、時々使うときがある。しかしやはり多いのは、特定の人物を形容する場合だ。最近、読んだ本の著者は、いずれも「曲者」、それも「大曲者」(オオクセモノ!)と言いたくなる存在感があった。


 「『さみしさ』の研究」(ビートたけし 小学館新書)

 久しぶりに「たけし節」を読みたくて手に取った。中身は週刊誌連載なので特に目新しく感じなかった。ただ「オイラはこの能力に関して絶対の自信を持っている」と記した箇所には、納得がいった。ビートたけしが、自らの老いと向き合いながら常に表舞台に立ち続けられる秘訣は、そこにあるのだと理解できる。

 「自分を見極める力」「自己客観視する能力」「状況判断能力」


 「それでもこの世は悪くなかった」(佐藤愛子  文春新書)

 作家の名前は知っているが小説は一冊も読んだことがない。このエッセイ集で知る人生は、ずいぶんと「侠気」に富むものだった。書かれているエピソードは、著名な父や弟のことを含めてずいぶんと面白く、ある意味破天荒だ。ただ、本格的に「作家として性根が入った」きっかけとなる述懐はこのようにシンプルだ。

 客観性を身に付けること。客観性、客観性。そこから始めなければならないことに気がついたのでした。




 「ぜんぶ、すてれば」(中野善壽  ディスカバー・トゥエンティワン)

 雑誌の新刊紹介で気になったので注文した一冊。著者は経営の世界では有名らしいが、今まで本は書かなかった。出版するきっかけが編集者によるこの書名の提示だったとある。それが全てを物語っている。基本的に「今日がすべて」という生き方を貫く人物。様々な組織に属し、離れ、常に新しいものを求めて動く。

 感性と思いつきで行動する姿は、凡人では到底真似できない。だからこそ「大曲者」らの言に従って、客観的に見る必要がある。人は「地理型」と「歴史型」の2タイプに分かれるという論に添えば、著者は完全な前者、全てフローとして捉える今の世にマッチする。もし自分を後者と見極めたら、深く掘るしかない。

改めてネジを巻こう

2020年10月14日 | 雑記帳
 昨日は県の図書館大会が開かれたので秋田市へ。運転している途中で、あれっ、そういえばいつ以来なのかと思った。普通の年なら仕事あるなしに関わらず、平均して二か月に一度くらいは行っていたが、今年は…。ああそう言えばと、運転免許更新があったので二月下旬にセンターで講習を受けたことを思い出した。


 緊急事態宣言の前だったし、緊張感はそんなになかった。のんびりムードのその日の記録を読み、思わず微笑む。あれから約八か月。いつも通る国道7号線には「下浜サンセットロード」なる新バイパスが出来ている。高台を通るので夕陽の沈む風景はきっといいだろうと思う。でも、世の中はあまり快適ではない。



 大会(と言っても参加者は60人程度)の冒頭挨拶で語られた、会長の一言が意味する苦悩は大きい。「自分が任についた7年前の図書館のキーワードは『つなぐ』であったが、今は『つながることができない』現状となった」…続けた「そしてしばらく続くだろう」という見通しは、少なからず参加者が一同に感じていた。


 午前の講演に続き、午後からの情報交換は「新型コロナウィルスへの各館の対応について」であり、ブロックごとの現状や事前アンケートの結果などが発表された。質疑は口頭で行わず、文書のみで実際の交流は避けるという点が徹底していた。開催を迷ったと繰り返されたとおり、かなり厳重な対策が目についた。


 正直、こんな重苦しい気持ちで「大会」を終えたことはあまり記憶がない。しかし改めてコロナ以降のことを振り返るいい機会になった。仕事上だけではなく、大局観を持つことと今に力を注ぐことのバランスが大切になる。危機に直面するかもしれないという気構えは忘れがちなので、ネジはしっかり巻いておこう。

「やれるなら、どうぞ」の条件

2020年10月13日 | 読書
 ずいぶんきっぱりした語り口の本だった。小気味いいという表現が合うかもしれない。例えば「よく“親子で読書を楽しみましょう”というキャッチフレーズを耳にしますが、それは”同じ本を楽しみましょう”という意味ではありません」…ぼんやり読んでいると気づけない根本のことを、明確に語ってくれる一冊だ。


『かならず成功する読みきかせの本』(赤木かん子 自由国民社)


 過日残した「爺バカモードの絵本読み」で、文科省資料として引用したポイントの最初「絵本はおとなが子どもと一緒に楽しむ本」について、浅い見方をするなと教えてくれる。つまり、親が読むならば、その「楽しむ」は本の中にあるのではなく、子どもの笑顔の中にあるという点をしっかり認識せよ、と言っている。


 大勢を相手にするボランティアなどの「コツのコツ」として、提言されていることはやや衝撃的だ。低学年用としては「“自分が読みたい本”を選ばない」がある。結論として「自分の声に向いている本」を優先すべきとする。確かに男声と女声の違い、それに声の質は表現術以上に「世界」を規定するかもしれない。



 「人の声にはふたつのタイプがあります」というコラムが興味深い。ナレータータイプとキャラクタータイプ、こうした区分は職業として子どもを相手にしてきた経験から言えば確かにあるように思うが、読み方としてはどちらも求めてきた、自分もそうありたいと思っているからだろうか。しかし、もう少し掘り下げれば「読み手としての強みを生かす」観点で、本を選んでいくべきだろうか。


 「やれるなら、どうぞ」と著者は言う。そのために自己分析と演出が必須なのだ。いずれにしろ「聞き手が楽しむ」ことを最優先するという点が貫かれている。巻末のQ&Aはかなり辛辣な部分もあるが「子どもたちを本の中へ連れていく」ために、著者の言う必要な手立てと心構えは明快だ。ブックガイドとしても秀逸。

村上春樹の心は1じ

2020年10月11日 | 読書
 読み聞かせの講座で、聞き手の脳波測定の話題があった。よく「淡々と読む」と「感情を込めて読む」の違いが話題になったりするが、脳波のデータ上に大きな違いは見られないとのこと。その点もへええと思ったのだが、それ以上に納得したのが、次のことだ。

 「機械音では駄目、アルファ波がでません」

 現職教員の時に、国語の教材文について教師の音読とCDによる俳優等の朗読のどちらが…といったことを思い出した。ねらいによるのだが、少なくとも聞く子どもにとっての「幸せ」はこれで決着がついたか?


 「おカネの切れ目が恋のはじまり」というドラマを、一週遅れで観ている。三浦春馬の遺作となったので、なんとなく見ていても複雑な気持ちが湧いてくる。主演の松岡茉優は好きな女優の一人だが、なんとなく今回の設定には合わない気がした。でも3回見続けたらそれなりに馴染む。清貧女子の使ったこの区分が印象深い。

 「お金の使いみちは消費・浪費・投資の3つ。浪費になっていないか、リターンがない投資になっていないか見極めること」


 ビジネス誌で図解されて語られるより響いてきました。お金に限らず時間もそうですな、と納得。


 で、全然脈絡なく紹介したいのが、表題のこと。今年もノーベル文学賞の有力候補であり続けたこの大作家の直筆の字がこちら。



 ある雑誌の表紙が、私には最初この字が「1じ」に見えた。もちろん、知っている人は知っているように、これは最近出版された訳書の題名。まあ、だからってどういうことでもないんですが…。
 別に作家の心を表しているわけではないだろうが、どうにも気になってしょうがない。



よそ者の置いて行った言葉

2020年10月10日 | 読書
 古本屋で見つけた『桂三若いろはに秋田』(さきがけ新書)を読んだ後、書棚にしまって置いた『秋田県民は本当に<ええふりこぎ>か?』(日高水穂 無明舎)を再読した。著者は落語家と研究者、一見何の共通点もなさそうだが、二人とも県外出身者、数年間この秋田で仕事をした。いわば「よそ者の視点」の著書である。



 桂三若は知っている人も多いだろうが、吉本興業の「住みます芸人」として2011年から4年ほど在住した。テレビ等でもよく取り上げられていたし、高座を聞いたこともある。噺家として面白い!とまではいかない。しかしこの本に書かれているギャグは少し笑える。地域の方言、地名などのネタは親近感が湧くからだ。


 三若が師匠文枝から教えてもらった落語家の「二種類の仕事」には頷いた。それは「仕掛ける仕事」と「こなす仕事」。イベント的な捉え方、また新作と古典という見方も出来そうである。さらに言えば一般の仕事も同様であると気づく。そしてこれは地域活性化の視点で語れば、その軸足をどこに置くか考えさせられた。


 日高の専門分野は「方言」であり、常に注目していた。愛読書である『秋田のことば』作成の中心メンバーである。『秋田県民は本当に<ええふりこぎ>か?』も発刊されてすぐ読んでいて、メモもしてあった。五年過ぎた今読んでも、なかなか刺激的な文章が並ぶ。「『ええふりこぎ』の心」と題した章の結びが典型的だ。

「堕落する者はさげすまされ、派手な振る舞いをする者は白眼視される。お互いがお互いを監視し合う中で、目立たないように、突出しないように気を配りながら、横並びであることを維持してきた」


 「ええふりこぎ」と対になって使われる「かまけぁし」(破産者)と、二語から見える「秋田の精神風土の一面」とされている。以前から言及されてきた閉鎖性を言い表している。私たちもよく知るようにそこで尊重されるのは「こなす」ことであり、「仕掛ける」ことではない。「よそ者」たちもそう言って去っていった。

寒露の日に甘露甘露と

2020年10月09日 | 雑記帳
 昨日は急に冷え込んできたと思ったら、暦上は「寒露」だった。「二十四節気」というのは、時々ぴたりと当てはまることがある。もっとも辞典にある「このころ北国では初氷が張るようになる」まではいかなかった。勤務がない日なので、久しぶりに隣市にある休養施設に足を運んだが、鳥海山も冠雪していなかった。


 昼食をとって帰ることを常にしている。これも久しぶり(今年は初かなあ?)に近くの中華屋さんに立ち寄ってみた。ここはいつも現業の方や営業職の人たちなどで賑わっている。通常のラーメン屋さんとは異なるがやはり頼むのは麺類。今日は八宝ラーメン(広東麺風)と担々麺を注文した。これがなかなかだった。



 お腹を満たしての帰り道。「熊出没注意」の看板を無視して、少しだけ山へ入ることにする。毎年採っている「禁断の茸(笑)」がないか確かめるためである。先月下旬に行ったときは、例年なら見え始める時期なのに、まるっきり姿がなかった。しかし個人的にあれを一度は賞味しないと「秋」だなと到底思えないのだ。


 年々里山に人が入らなくなり、荒れてくる様が顕著だ。しかしここは木の伐採もあったからか、比較的歩きやすかった。ねらい通り何本かのボッコ(木の切り株)にお目当てのものが姿を出していた。ほんの十分ほどでそこそこ採れた。食用の注意喚起はずっと続いているが、私は守らない!そう決めて15年も過ぎた。



 店頭や地域の市場にも、その品はない。公の売買は責任が伴うからだろう。無理もない。しかし、批判するわけではないが、なんだか昔からの味が残っていかないのは残念だ。臆病が過ぎないか。今年はずいぶん遅れたが秋のスタートは「スギワケ汁」で。この習慣は我が家では守っていきたい。いやあ、甘露甘露と。


絵本と向き合う時間を

2020年10月08日 | 雑記帳
 『100万回生きたねこ』に「かなしい」という語は一度も使われていない、と気づかされたのは、先日出席した県主催「読み聞かせボランティアステップアップ講座」の席だった。当たり前だが、そこに絵本の一つの本質が見える。つまり、読み手(聞き手)は言葉からだけでなく、絵から読み取っているということ。


 どんなふうに聴かせようかと、言葉の部分の工夫は怠らないが、一個の読み手としてきちんと絵と向き合っているかと問われると、少し怠慢だ。講師は精神科医の仕事をしながら、絵本専門士の肩書を持つ方で、非常に参考になる話が多かった。「一枚の絵の中には『五感』がある」…これは、方法論としても有効だ。


 論理性の他に、そのページから感じ取れる「視・聴・臭・触・味」を挙げてみることが必要かもしれない。それは自己の創造的能力と関係が深い。結構時間のかかる作業と見ていいだろう。音読だけではなく、もう少し「向き合う」時間を丁寧にしようと思った。さて、肝心といえばそもそもの読み聞かせの意義だが…。


 「子どもは絵本で予習し、体験して、絵本で復習する」…メモしつつ、こういう考え方は汎用性があると得心した。講義の導入時に講師の語ったことである。絵本との出会いを体験の予習や復習と考えれば、対象者によって選書する観点が絞られてくるし、読み方(演出の仕方)に関してもポイントが定まりやすいか。



 昨日、『かならず成功する読みきかせの本』(赤木かん子 自由国民社)という本を、今さらながら読みだした。題名からはハウツーのように見えるが、内容のユニークさは際立つ。ただ「読む目的」は「”幸福な時間”を、その子に、”今!”すごしてもらうために、本を読むのです」とある。当然それ自体が体験なのだから。

10年前の、せつない気持ち。から

2020年10月07日 | 雑記帳
 雑誌ブームの時期はいつだったか。それとは関係なしに結構購読し、かなり量が膨らんだ。何度か処分はしたが、気になった号は残してある。何気なく書棚へ手を伸ばした一冊を取ってみた。『BRUTUS』(マガジンハウス)だ。表紙にある特集名にはこんな句が…。「せつない気持ち。」おうっ…2010年11月号である。

 ただ「哀しい」でも「寂しい」でもない、
 「せつない気持ち」は複雑だ。

 と、特集の趣旨を書きだしているが、時代は「韓流ブーム」の頃でその辺りが起点になっているようだ。「せつない韓流スターBEST10」というページもあり、わずかに知っている数人の俳優も載っていた。関心がないので、それより茂木健一郎、内田樹、柴田元幸らの文章に今さらながら見るべき内容があり嬉しかった。


 茂木が紹介した認知実験の結果に納得した。「ある対象物があり、その背景にさまざまなノイズになるものを置いて対象物を見るとき、日本人と欧米人の間には、パフォーマンスに明らかな差が出る」とある。つまり日本人は「背景も含めて対象物を見」るが、欧米人は「対象物だけを見て背景を無視」する傾向がある。


 これは我が国における様々な出来事、事件等にコメントする欧米人の見方の核心と言えよう。意識的にコントロールできる領域は個人だとする認識をなかなか徹底できない点は日本人として認めざるを得ない。ただ複雑な絡み合いの結果に今があるという捉え方は、「論理的な帰結でもある」という考えに頷いてしまう。


 10.7今朝の散歩で見つけた蝉の抜け殻、せつない

 だから「せつない」という言葉を人が心底から吐くとき、そこに運命として受けとめる覚悟が芽生えている。この雑誌が発刊された半年後にこの国を襲う大震災時には多くの人が、そこまでもたどり着けない状況に陥った。そこから今は「せつなさ」まで立ち直った方々がいるに違いない。それはまだずっと継続中だ。


 奈良美智の絵を添え「セツナイ33」と題し、映画、文学、音楽等の例が33挙げられている。もちろん選者によって好み?はあろうが、自分にもいくつか馴染み深いものがある。今の関わりだと絵本だ。唯一選ばれたのが『100万回生きたねこ』。そういえばこの絵本に「かなしい」という語は一度も使われていない。

 あっ、そのことは明日。