すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

いずれにしてもGoTo!GoTo!

2020年10月06日 | 読書
 Go Toトラベルキャンペーンにのっかって温泉へでも行ってみるか…と書いたものの、実は7月から三度目も利用している。もちろん移動はいずれも県内で、地元貢献(笑)を貫く。旅好きにこんなお得感のある状況はないが、県をまたぐのはまだ気がひける。のんびりと宿で読書でもと今回持ち込んだのは、次の一冊だ。


 『浮遊霊ブラジル』(津村記久子  文藝春秋)



 短編集。7編収められている。正直最初の2編はGo Toストーリー状態になれたが、他の5編は今一つ乗り切れなかったり、ほとんど置いてかれ状態で活字を追いかけたりした状態だった。この作家の人間観察テンポについていけないのだろう。最初の2編は、「舞台」が身近に感じられたからだと自己分析してみた。


 表題作も追いつけない作品だった。初めての海外旅行を前に亡くなった72歳の「私」が幽霊になって、いろんな人の耳の中に入り込み、様々な国を旅する話。発想は確かに面白いが、舞台のイメージが今一つ湧いてこないから入り込めないのか、ただふうんと眺める感じになった。現れる風景に心が揺らがないのだ。


 その点、印象深く残った2編は、退職したばかりの男性の帰った故郷の町、それから街なかにあるうどん屋であり、登場人物も少なく掴みやすい。ごく平凡な、つまり誰の身にも起こりそうな出来事やちょっとした諍い事を拾い上げていて、人物の心の襞が見えやすく物語に浸れた気がした。まさにGo Toストーリー。


 トラベルもストーリーも似ていると、無理やりこじ付けしてみたくなった。共通点はある。要は「風景」への同化もしくは没頭のようなものではないか。見慣れた場合にも初めてで驚いた場合でも、その景色に身を置く心地よさや心震える感覚を求めているのだ。いずれにしても出かける、手に取る…GoTo!GoTo!

嘘を見事につく人に

2020年10月04日 | 読書
 図書館の書架でタイトルを見て、思わず「なんて、題名だっ!」と言いそうになった。「ヒマ」は暇だろうし「道楽」はそのままなはずだ。素敵な言葉同士がくっついていて、幼い頃初めて「イチゴミルク」という語を見たときのような感じがした(嘘ですね)。なんといっても筆者があのネンテンさんだからねえと思う。


 『ヒマ道楽』(坪内稔典  岩波書店)


 「三月の甘納豆のうふふふふ」は衝撃だったし、その後「カバ」の愛好者?と知り、代表句の一つ「桜散るあなたも河馬になりなさい」にも恐れ入った。このエッセイ集にもいくつか句がある。毎年その季節に作り続けているというビワの句に共感した。「びわ食べて君とつるりんしたいなあ」…いかにもネンテンさんだ。



 今さら改めて書くまでもないが、このエッセイ集全般の印象はネンテンさんそのもの、つまり「肩から力がぬけている」がぴったりしている。そういう見方、考え方で統一されている。当たり前だがそんな生き方は、しようと思って即できる境地ではない。年を重ねてたどり着くには、いくつかの心掛けが必要なようだ。


 典型的なのは「軽慮浅謀」の章だ。この語は「深謀遠慮」の対語で、「あさはかで軽はずみなこと」を指すらしい。いつもいつも思慮深く慎重に行動するのではなく、時には軽はずみなことも楽しむという姿勢だ。「逆というか反対の事態を考える」ことも一つの手とある。今だけに溺れない発想は誰にとっても大事だ。


 「嘘つきになろう」も興味深かった。ここに載っている柳田国男の母親のエピソードは以前何かで読んだ。三歳の弟のついた嘘を「最初の智慧の冒険」と受けとめた話だ。嘘をつかない道理は認めても、芸術としてみれば「嘘」の持つ明るさ、楽しさの価値は大きい。「嘘を見事につく老人になりたい」と…。ああ私も。

ジョシたちのキニナルキ

2020年10月03日 | 読書
 数年前、地域おこしに関わっている若い方と話をしていた時のことだ。映画やドラマ、それから自分で撮った写真の話題で盛り上がっていたら、その若い方からこんなふうに言われた。「なんか、女子力がありますねえ」えっ、そうなの。初めての評価に戸惑った。意味をどう捉えるか様々だろうが…印象に残っている。  


 女子力がある男子(笑)というのも変だが、ジョシリョクに興味はある。ただ、女子力ではなく、「女史力」かな。小説やエッセイなど読む割合にしても、なんとなく女性の書き手に惹かれている傾向があるやなしや…。手元にある雑誌『波』を見ても、おっと思う表現を拾い上げてみたら、あれあれ女史だらけではないか。


 書評のなかで、川上弘美は書いている。

「芭蕉と連衆たちのまいた俳諧の連歌が、時には途中で未完のまま終わってしまうことがあっても、(中略)まかれたというそのことだけで、書かれたというそのことだけで、つづまりをつける必要など何もない全きものとなってあるのだ。」

 この潔い見方を、文語的な語彙を使って表現できる素晴らしさよ、と思う。



 実父の介護をテーマに新連載を始めたジェーン・スーが、そこまでの経緯に絡めて、自己分析をこんなふうに語る。

 「問題解決が好きなのは、私の長所であり短所なのだ。端的に言えばお節介。自分から手を出しておいて、感謝が十分でないと傷ついてしまう。それはあまりに勝手だろう。恋愛じゃないんだから。」

 このモリモリ立ち上がっていく文体は、なかなか男子には見られない性向かもしれないと考えたりもする。


 なんと、その次のページには、かの塩野七生がこんなふうにインタビューに答えているのではないか。

 (2017年の著作を書き上げたあと)「これで私も死ぬな、と思っていたら死ななかった。生きているのに何もしないというのも、けっこう疲れるんですよ。それで、疲れるのなら、いっそ書こうと思い…」



 「女史」という語は「記録をつかさどった女官」という歴史を持つが、かなり強力だということを改めて思い知るような気分になる。


自立を、自覚を、自助は…

2020年10月01日 | 雑記帳
 昨日、二人の達人が組織や企業などの「価値」を再生させていく営みについて考えていたら、一個の人間の自立に似ていると思った。さらに今起こっている出来事に結びついた。他者からみれば華やかに活躍していたり、とても前向きに生きていたりするように見える芸能人の自殺が相次ぎ、ニュースになっている。


 自殺者の統計は、国全体で昨年は2万人をきったと言われている。しかし、今年どのようになるのか。様々な理由づけがされるだろうが、なんとなく他人事には思えない雰囲気を感じてしまう。それは年々高まっている社会環境の息苦しさと無縁ではないだろう。いつ、誰の身に起きても不思議とは言えない気がする。



 自分に「価値」があると自覚し、それを他者から認めてもらうことは、生きるための支えや励みになる。ただ、繰り返す日常の中でそれらがいつ負のストレスに変化するか、測り知れない。そういった暗く重い流れが心の中に生じて判断力を鈍らせる。自殺は一つの「選択」とも言えようが、結局「放棄」ではないか。


 個別の問題はいつもあり、それに対する具体的な解決や支援は欠かせないのだが、対応をする側(家族であれ社会制度であれ)もまた重苦しく、関わりが負担になる。「経済優先」「(利己的)個人主義」が沁みついているからだろう。「自助」は大事だ。しかし、それが一番に掲げられる世の中では、殺伐さが募るだけだ。