「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」(新潮文庫)に、気になる箇所があるので、今日はそこを取り上げてみます。
「ノモンハンでの出来事」とあります(p179~ )
【村上】このあいだ非常に奇妙な経験をしました。ぼくはノモンハンに行ったんです。モンゴルの軍の人にたのんで、昔のノモンハンの戦場跡に連れて行ってもらったのです。そこは砂漠の真ん中で、ほとんどだれも行ったことがないところで、全部戦争の時そのままに残っているんですよ。戦車、砲弾、飯盒(はんごう)とか水筒とか、ほんとうにこのまえ戦闘が終わったばかりみたいに残っている。ぼくはほんとうにびっくりしました。空気が乾燥しているからほとんど錆びていないのですよ。また、あまりにも遠くて、持って行ってクズ鉄として使うにも費用がかかるので、ほったらかしにしてあるのですね。それで、いちおう慰霊という意味もあって、ぼくは迫撃砲弾の破片と銃弾を持って帰って来たのです。・・ホテルの部屋にそれを置いて、なんかいやだなと思ったんですよ、それがあまりにも生々しかったから。夜中にパッと目が覚めたら、部屋が大揺れに揺れているんです。ぼくは完全に目は覚めていたんですよ。もう歩けないぐらい部屋中がガタガタガタガタ揺れていて、ぼくははじめ地震だと思ったのですね。それで真っ暗な中を這うようにして行って、ドアを開けて廊下に出たら、ピタッと静まるんです。何が起こったのかぜんぜんわからなかったですよ。これはぼくは、一種の精神的な波長が合ったみたいなものだろうと思ったのです。それだけ自分が物語のなかでノモンハンということにコミットしているから起こったと思ったのですね。・・」
ここいらの箇所は、伊藤桂一著「静かなノモンハン」(講談社文庫・文庫の最後には司馬さんとの対談が掲載されておりまして、こちらも参考になります)の「背囊が呼ぶ 鳥居少尉の場合」などを、すぐに私は思い浮かべたりしました。それは、とりあえずここと読み比べてもらえばよいので次に行きます。
【村上】ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが・・・・。
【河合】それは小説を書いておられるからですよ。谷川俊太郎さんも言っておられました。ほとんど見ないって。そりゃあたりまえだ、あなた詩を書いているもんって、ぼくは言ったんです。
ここに谷川俊太郎の名前が出てきたので、そういえば谷川俊太郎の最初の詩集「二十億光年の孤独」というのを思い浮かべたのでした。その題名にもなった詩「二十億光年の孤独」には有名な箇所「万有引力とは/ひき合う孤独の力である」という2行がありました。河合隼雄と村上春樹の、二人の対談を読んでいると、まるでこの2行が、この対談のためにとっておかれたようだと、思い浮かんだ私でした。ちなみにこの詩の最後の2行はというと「二十億年の孤独に/僕は思わずくしゃみをした」とありました。それでですね。この詩集には「はるかな国から――序にかへて」として三好達治が書いております。
ここで
三好達治は明治33年(1900)生まれ。
伊藤桂一は大正6年(1917)生まれ。
司馬遼太郎は大正12年(1923)生まれ。
河合隼雄は昭和3年(1928)生まれ。
谷川俊太郎は昭和6年(1931)生まれ。
村上春樹は昭和24年(1949)生まれ。
昨日の続きでいえば、水木しげるの世代が夢を見る世代だったのに、
だんだんと、こちら谷川から村上になると、どうやら夢を見ないのでした。
ちょうど1930年が区切りなのでしょうか。飯島耕一(1930年生まれ)に「ゴヤのファースト・ネームは」という詩があります。そこにこんな5行があります。
夢がほしい
などとおろかなことを言うな。
夢から逃れることに
日夜 辛苦している心が
いくつもあるのだから。
谷川の詩集のはじめに三好達治の「序にかへて」があり、その驚きの様子が、よく現われているような気がします。
序にかへては
この若者は
意外に遠くからやつてきた
とはじまっていました。ここでは
真ん中をとばして、最後を引用しておきましょう。
若者らしく哀切に
悲哀に於て快活に
――げに快活に思ひあまつた嘆息に
ときに嚔(くさめ)を放つのだこの若者は
ああこの若者は
冬のさなかに永らく待たれたものとして
突忽とはるかな国からやつてきた
どうやら、ここに、新しく戦場の夢を見ない世代があらわれたのだと、
三好達治は思ったのかもしれませんね。私はそう読むのでした。
そして、その夢に今度は村上春樹が触れたかどうか?
これは、村上春樹の愛読者にお聞きしたいのでした。
「ノモンハンでの出来事」とあります(p179~ )
【村上】このあいだ非常に奇妙な経験をしました。ぼくはノモンハンに行ったんです。モンゴルの軍の人にたのんで、昔のノモンハンの戦場跡に連れて行ってもらったのです。そこは砂漠の真ん中で、ほとんどだれも行ったことがないところで、全部戦争の時そのままに残っているんですよ。戦車、砲弾、飯盒(はんごう)とか水筒とか、ほんとうにこのまえ戦闘が終わったばかりみたいに残っている。ぼくはほんとうにびっくりしました。空気が乾燥しているからほとんど錆びていないのですよ。また、あまりにも遠くて、持って行ってクズ鉄として使うにも費用がかかるので、ほったらかしにしてあるのですね。それで、いちおう慰霊という意味もあって、ぼくは迫撃砲弾の破片と銃弾を持って帰って来たのです。・・ホテルの部屋にそれを置いて、なんかいやだなと思ったんですよ、それがあまりにも生々しかったから。夜中にパッと目が覚めたら、部屋が大揺れに揺れているんです。ぼくは完全に目は覚めていたんですよ。もう歩けないぐらい部屋中がガタガタガタガタ揺れていて、ぼくははじめ地震だと思ったのですね。それで真っ暗な中を這うようにして行って、ドアを開けて廊下に出たら、ピタッと静まるんです。何が起こったのかぜんぜんわからなかったですよ。これはぼくは、一種の精神的な波長が合ったみたいなものだろうと思ったのです。それだけ自分が物語のなかでノモンハンということにコミットしているから起こったと思ったのですね。・・」
ここいらの箇所は、伊藤桂一著「静かなノモンハン」(講談社文庫・文庫の最後には司馬さんとの対談が掲載されておりまして、こちらも参考になります)の「背囊が呼ぶ 鳥居少尉の場合」などを、すぐに私は思い浮かべたりしました。それは、とりあえずここと読み比べてもらえばよいので次に行きます。
【村上】ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが・・・・。
【河合】それは小説を書いておられるからですよ。谷川俊太郎さんも言っておられました。ほとんど見ないって。そりゃあたりまえだ、あなた詩を書いているもんって、ぼくは言ったんです。
ここに谷川俊太郎の名前が出てきたので、そういえば谷川俊太郎の最初の詩集「二十億光年の孤独」というのを思い浮かべたのでした。その題名にもなった詩「二十億光年の孤独」には有名な箇所「万有引力とは/ひき合う孤独の力である」という2行がありました。河合隼雄と村上春樹の、二人の対談を読んでいると、まるでこの2行が、この対談のためにとっておかれたようだと、思い浮かんだ私でした。ちなみにこの詩の最後の2行はというと「二十億年の孤独に/僕は思わずくしゃみをした」とありました。それでですね。この詩集には「はるかな国から――序にかへて」として三好達治が書いております。
ここで
三好達治は明治33年(1900)生まれ。
伊藤桂一は大正6年(1917)生まれ。
司馬遼太郎は大正12年(1923)生まれ。
河合隼雄は昭和3年(1928)生まれ。
谷川俊太郎は昭和6年(1931)生まれ。
村上春樹は昭和24年(1949)生まれ。
昨日の続きでいえば、水木しげるの世代が夢を見る世代だったのに、
だんだんと、こちら谷川から村上になると、どうやら夢を見ないのでした。
ちょうど1930年が区切りなのでしょうか。飯島耕一(1930年生まれ)に「ゴヤのファースト・ネームは」という詩があります。そこにこんな5行があります。
夢がほしい
などとおろかなことを言うな。
夢から逃れることに
日夜 辛苦している心が
いくつもあるのだから。
谷川の詩集のはじめに三好達治の「序にかへて」があり、その驚きの様子が、よく現われているような気がします。
序にかへては
この若者は
意外に遠くからやつてきた
とはじまっていました。ここでは
真ん中をとばして、最後を引用しておきましょう。
若者らしく哀切に
悲哀に於て快活に
――げに快活に思ひあまつた嘆息に
ときに嚔(くさめ)を放つのだこの若者は
ああこの若者は
冬のさなかに永らく待たれたものとして
突忽とはるかな国からやつてきた
どうやら、ここに、新しく戦場の夢を見ない世代があらわれたのだと、
三好達治は思ったのかもしれませんね。私はそう読むのでした。
そして、その夢に今度は村上春樹が触れたかどうか?
これは、村上春樹の愛読者にお聞きしたいのでした。