和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

私の学校。

2007-11-24 | Weblog
昨日のブログで、芥川喜好さんの言葉に「現代画廊は私にとっての学校でした」とありました。
学校といえば、梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)に「渡辺照宏氏は、日本の大学では、本のよみ方などをおしえられる機会がすくないのではないか、ということを指摘しておられる。じっさい、アメリカの大学のように、来週までにこれだけよんでこいと、部あつい本を何冊もわたされるというようなこともない。どうも日本の教育は、やっぱり教科書中心・講義中心で、本をよませるという訓練方式がひどくかけているのではないだろうか。わたし自身の学生時代をふりかえってみても、読書法についての指導は一ぺんもうけたことがない。現在の学生も、事情はかわっていないようである。・・・」(p99~)
この新書が出たのが1969年です。現在はどうなんでしょうね(笑)。
もし、1969年のまま止まっているのなら、さしあたり、ネット上が「私の学校」といえるかもしれないという仮説が生まれる。そんなことを思ってもよいですよね。

私は、レビュージャパンやbk1で、書評の書き込みをしております(ここで書いた文をあげてるのですけれど)。
他の方の書評を読むと勉強になります。ということで、私の学校は(本についてですが)ネット上にあるといってよい。
そういえば梅棹氏のこの本に
「まず、はじめからおわりまでよんだ本についてだけ、わたしは『よんだ』という語をつかうことを自分にゆるすのである。一部分だけよんだ場合には、『よんだ』とはいわない。そういうときには、わたしはその本を『みた』ということにしている。そして、あたりまえのことだが、『みた』だけの本については、批評をつつしむ。」(p102)とあります。う~ん。私は『みた』だけの本でもどんどん感想を書きこんでしまうタイプですので、痛い指摘だなあ。これじゃ私のレビューは、平均点以下ということになります。梅棹氏の「あたりまえのこと」これが私に出来ない。

その新書では、「本をたてる」「積読」の違いも参考になったなあ、と思いだします。
「おくときには、つんではいけない。なんでもそうだが、とくに本や書類はそうである。横にかさねてはいけない。かならず、たてる。ほんとうにかんたんなことだが、この原則を実行するだけでも、おそろしく整理がよくなる」(p82)

「一ぺんよんでから積読のである。よみおわって、鉛筆で印をつけた本は、しばらく、書斎の机の上に、文字どおりつみあげてある。さきにのべた、傍線にしたがってのノートつけは、よんだあとすぐではなくて、数日後、または数週間後におこなうのである。そのあいだ、本の現物は、目のまえにつんどかれる」(p110)

どちらも、そうしようと思ったのですが(笑)。
ちょいと、「知的生産の技術」を開くとまた、読み返したくなってきます。
このくらいにして、そういえば、机に置いてある、新聞紙がありました。
このブログで引用したのですが、あらためて、再度、引用してみます。

松岡正剛氏「半歩遅れの読書術」(日経11月18日)

「自分が好きに選んだ本の感想を綴っていくときに、
 ケチをつけるのはつまらない。
 そういう本はとりあげなくていい。やはり
 どのように没頭したか、
 どこで脱帽したか、
 どんなふうにその読後感を人に伝えられるか、
 そこをのみ書きたい。」

とてものこと、そうはできない私ですが、そのように書いている方がおられる。
そう思うだけでも、何か学校へかよっているような気分になるじゃありませんか。


コメント
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