今日は一日雨。シトシト降りつづき。ポタポタと降り止むかと思うまもなく、シトシトと続きます。ということで雨の話。
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)に戦時中の海軍語学校の様子が出てきます。「毎週火曜日だったと思うが、私たちは日本映画を観た。開戦時にカリフォルニアに来ていたのを押収したものだろう、字幕もなく、時代物も現代物もあったが、俳優では田中絹代や佐分利信が記憶に残っている。」
「映画も、何度も同じものを観ているうちにわかり始めた。もちろん、第三者として日本語の会話を聞いているのだから、妙なところが気になった。ふつうならハイと言うところを、佐分利信はよく『ええ』と言うのに気がつき、ハイとハァとええの差を考えたりもした。日本人なら気にもとめないはずだが、私たちは日本語という未知の世界に、少しでも手がかりを求めていたのである。橋は劇的で、雨は長いと、相場が決まっていた。映画に橋の場面が出てくると、必ず恋人が出逢ったり別れたりする。しまいには、橋を見た瞬間に『あ、これからなにかあるぞ』と、身構えるようにさえなった。また、日本のカメラマンは長々と雨のシーンを写した。しとしとと雨が降り、水たまりが出来、さらにそこへ雨が降り込む。日本人が雨に万斛(ばんこく)の思い入れをするのが、よくわかった。・・・教室では呑み込めない日本人の生活感覚や芸術観を、映画でつかんだのである。」(p31~33)
さてっと、じつは村上春樹の新刊「走ることについて語るときに僕の語ること」(文藝春秋)が気になっていて、小説など読んだこともないのですが、注文しました(まだ本はきませんけれどね)。私は小説は駄目なのですが、対談とかは好き。気楽に、そばで話を聞いているような気分で読めるのがなにより。たとえば、落語で観客席と別れて聞くというのとは違って、まるで一緒のテーブルで話を聞きながら食事でもしているような気分になれるのがいいですね。そんな対談集でも、あとで読み直そうと思いながら、ついついそのままになってしまっている本があるものです。そのなかに河合隼雄・村上春樹対談「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」(岩波書店1996年)というのがありました。そこに村上氏のこんなお喋りなどあります。
「小説を書き始めるまでは、自分の体にそんなに興味を持っていなかったのです。ところが、小説を書いていると、自分の身体的なもの、あるいは生理的なものにものすごく興味を持つようになって、体を動かすようになりました。」(p97)
まあ、こんな風に新刊が来るまでの間に、この対談をパラパラと読み直そうと思ったわけです。すると雨が出てくる。
それは河合氏のお喋りでした。
「極端に言うと、治療者として人に会うときは、その人に会うときに雨が降っているか?偶然、風が吹いたか?とかいうようなことも全部考慮に入れます。要するに、ふつうの常識だけで考えて治る人はぼくのところへ来られないのですよ。だから、こちらもそういうすべてのことに心を開いていないとだめで、・・・・」(p158)
ところで、もう外は暗くなり、雨はポッリポッリと降っております。
新刊はいつ頃届くかなあ。
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)に戦時中の海軍語学校の様子が出てきます。「毎週火曜日だったと思うが、私たちは日本映画を観た。開戦時にカリフォルニアに来ていたのを押収したものだろう、字幕もなく、時代物も現代物もあったが、俳優では田中絹代や佐分利信が記憶に残っている。」
「映画も、何度も同じものを観ているうちにわかり始めた。もちろん、第三者として日本語の会話を聞いているのだから、妙なところが気になった。ふつうならハイと言うところを、佐分利信はよく『ええ』と言うのに気がつき、ハイとハァとええの差を考えたりもした。日本人なら気にもとめないはずだが、私たちは日本語という未知の世界に、少しでも手がかりを求めていたのである。橋は劇的で、雨は長いと、相場が決まっていた。映画に橋の場面が出てくると、必ず恋人が出逢ったり別れたりする。しまいには、橋を見た瞬間に『あ、これからなにかあるぞ』と、身構えるようにさえなった。また、日本のカメラマンは長々と雨のシーンを写した。しとしとと雨が降り、水たまりが出来、さらにそこへ雨が降り込む。日本人が雨に万斛(ばんこく)の思い入れをするのが、よくわかった。・・・教室では呑み込めない日本人の生活感覚や芸術観を、映画でつかんだのである。」(p31~33)
さてっと、じつは村上春樹の新刊「走ることについて語るときに僕の語ること」(文藝春秋)が気になっていて、小説など読んだこともないのですが、注文しました(まだ本はきませんけれどね)。私は小説は駄目なのですが、対談とかは好き。気楽に、そばで話を聞いているような気分で読めるのがなにより。たとえば、落語で観客席と別れて聞くというのとは違って、まるで一緒のテーブルで話を聞きながら食事でもしているような気分になれるのがいいですね。そんな対談集でも、あとで読み直そうと思いながら、ついついそのままになってしまっている本があるものです。そのなかに河合隼雄・村上春樹対談「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」(岩波書店1996年)というのがありました。そこに村上氏のこんなお喋りなどあります。
「小説を書き始めるまでは、自分の体にそんなに興味を持っていなかったのです。ところが、小説を書いていると、自分の身体的なもの、あるいは生理的なものにものすごく興味を持つようになって、体を動かすようになりました。」(p97)
まあ、こんな風に新刊が来るまでの間に、この対談をパラパラと読み直そうと思ったわけです。すると雨が出てくる。
それは河合氏のお喋りでした。
「極端に言うと、治療者として人に会うときは、その人に会うときに雨が降っているか?偶然、風が吹いたか?とかいうようなことも全部考慮に入れます。要するに、ふつうの常識だけで考えて治る人はぼくのところへ来られないのですよ。だから、こちらもそういうすべてのことに心を開いていないとだめで、・・・・」(p158)
ところで、もう外は暗くなり、雨はポッリポッリと降っております。
新刊はいつ頃届くかなあ。