新聞の歌壇俳壇を読むのが好きです(自分で歌を詠むわけではないのにね)。
だいぶ以前、土屋文明選の読売歌壇が本になっており、読んだことがあります。
土屋文明の短歌はまるでわからなかったのですが、土屋文明の選評はわかりやすく、選ばれた短歌を、なるほどなるほどと納得しながらの選評読みを楽しみました。今だったら土屋文明に変わる人はどなたかなあと思うと、私には岡野弘彦氏が思い浮かぶのでした(いそいで、つけくわえれば、岡野氏の短歌はわかりやすいと思います)。
さて、朝日新聞11月21日の文化欄に「歌人岡野弘彦さん天皇家の和歌指導役退く」とありました。河合真帆氏の署名記事です。「歌人岡野弘彦(83)が先ごろ宮内庁御用掛の職を退いた。四半世紀にわたり、天皇家の和歌指導・相談役という側近の重責を果たした岡野さんに心境を聞いた」とあります。
都内に借りた家を引き払い、年内に住み慣れた伊豆に戻るのだそうです。
ところで、読売歌壇10月22日の岡野弘彦選を、ここに取り上げてみたくなりました。
玉音放送兵ら土下座し聴きいたり蝉なく枝に吊りしラジオに 香取市 関沼男
【選評】 私も霞ヶ浦周辺の村で、一少隊が竹藪にかくれて敗戦の放送を聞いた。朝からじりじりと太陽の照りつける日だった。体から一切の物が虚脱してゆく思いだった。苦悩の始まりの日だった。
戦ひの終りし日まためぐりきて皇居前広場松のかげ濃し 東京都 松井和治
【選評】私どもに吉田松陰を講義した教授が、敗戦の日この広場で割腹自殺したと知ったのは少し後のことだった。この広場を見るたびに、それを思う。
戦友の通夜より帰る雨の道ひとり軍歌をくちずさみをり 埼玉県 沢野朋吉
【選評】最初の「宮さん宮さん」は別にして、「ああ戦友」をはじめ日本の近代の軍歌はみな、どうしてあんなに淋しくもの悲しいのだろう。
以上、10月22日の岡野弘彦氏の短歌選最初の3首でした。
岡野弘彦著「万葉秀歌探訪」(NHKライブラリー)には
「この本の、はじめに」とあります。ではそこから引用。
「戦に敗れた軍隊から解放されて、ふたたび大学に帰ってきた戦中派の私達の心は、まだどこにも生き甲斐を見いだせず、荒涼としていた。・・・・・
現在のような言葉の氾濫する時代の人々には嘘のように感じられるかもしれないが、小学校に入ったのが満州事変の起った年で、それ以来ひたすら軍国教育を受けた者には、突然に戦争が終わって解放されても、お仕着せの言葉ばかりで胸の底の真実を表現する自在な言葉がなかった。自分の言葉を模索し苦しんでいる私に、折口先生は『万葉集の東歌を暗唱してごらん』と言い、それが完了した頃にまた、『近代の作家なら古泉千樫の歌集を暗唱してごらん』と言った。・・・今にして言えることだが、それは、日本人の長い心の伝統をよく知った人の、あたたかく適切な教えであった。千四百年の永い生命を持った、定型としらべに宿る日本人の魂の表現は、戦争によって荒廃した若者の心に、凝縮した言葉の感染力による、奥深いよみがえりの力を与えてくれた。まさに、歌は日本人にとって、集中した魂の声であり、新しい生命の指標であった。殊に『東歌』という、東国の村々の生活の場で、長い歳月と多くの村びとの情念をそそいてはぐくみ育てられた歌には、都の創作歌人の個的な作品と違った、底ごもるように深く根づよい人間の本性と情熱が、濃密でしかも高らかに歌われていて、現代の観念やイデオロギーに傷つき痛めつけられた戦中派の未熟な心の回復に、大きな力を与えられたのである。・・・」
もう一度、宮内庁御用掛の職を退いた岡野氏という新聞記事にもどりましょう。
そこには岡野氏の言葉としてこうありました。
「心の中でまとまってきた、師の折口信夫の学問と文学をまとめる時間がほしい。ただそれだけなんです。20代に起居を共にして教えられた『折口学』を、僕はひたすら継承に集中した。でも次第に、体系だてて書かれてはいない『もののふの歌の系譜』といったことをめぐる先生の考えが見えてきた」
だいぶ以前、土屋文明選の読売歌壇が本になっており、読んだことがあります。
土屋文明の短歌はまるでわからなかったのですが、土屋文明の選評はわかりやすく、選ばれた短歌を、なるほどなるほどと納得しながらの選評読みを楽しみました。今だったら土屋文明に変わる人はどなたかなあと思うと、私には岡野弘彦氏が思い浮かぶのでした(いそいで、つけくわえれば、岡野氏の短歌はわかりやすいと思います)。
さて、朝日新聞11月21日の文化欄に「歌人岡野弘彦さん天皇家の和歌指導役退く」とありました。河合真帆氏の署名記事です。「歌人岡野弘彦(83)が先ごろ宮内庁御用掛の職を退いた。四半世紀にわたり、天皇家の和歌指導・相談役という側近の重責を果たした岡野さんに心境を聞いた」とあります。
都内に借りた家を引き払い、年内に住み慣れた伊豆に戻るのだそうです。
ところで、読売歌壇10月22日の岡野弘彦選を、ここに取り上げてみたくなりました。
玉音放送兵ら土下座し聴きいたり蝉なく枝に吊りしラジオに 香取市 関沼男
【選評】 私も霞ヶ浦周辺の村で、一少隊が竹藪にかくれて敗戦の放送を聞いた。朝からじりじりと太陽の照りつける日だった。体から一切の物が虚脱してゆく思いだった。苦悩の始まりの日だった。
戦ひの終りし日まためぐりきて皇居前広場松のかげ濃し 東京都 松井和治
【選評】私どもに吉田松陰を講義した教授が、敗戦の日この広場で割腹自殺したと知ったのは少し後のことだった。この広場を見るたびに、それを思う。
戦友の通夜より帰る雨の道ひとり軍歌をくちずさみをり 埼玉県 沢野朋吉
【選評】最初の「宮さん宮さん」は別にして、「ああ戦友」をはじめ日本の近代の軍歌はみな、どうしてあんなに淋しくもの悲しいのだろう。
以上、10月22日の岡野弘彦氏の短歌選最初の3首でした。
岡野弘彦著「万葉秀歌探訪」(NHKライブラリー)には
「この本の、はじめに」とあります。ではそこから引用。
「戦に敗れた軍隊から解放されて、ふたたび大学に帰ってきた戦中派の私達の心は、まだどこにも生き甲斐を見いだせず、荒涼としていた。・・・・・
現在のような言葉の氾濫する時代の人々には嘘のように感じられるかもしれないが、小学校に入ったのが満州事変の起った年で、それ以来ひたすら軍国教育を受けた者には、突然に戦争が終わって解放されても、お仕着せの言葉ばかりで胸の底の真実を表現する自在な言葉がなかった。自分の言葉を模索し苦しんでいる私に、折口先生は『万葉集の東歌を暗唱してごらん』と言い、それが完了した頃にまた、『近代の作家なら古泉千樫の歌集を暗唱してごらん』と言った。・・・今にして言えることだが、それは、日本人の長い心の伝統をよく知った人の、あたたかく適切な教えであった。千四百年の永い生命を持った、定型としらべに宿る日本人の魂の表現は、戦争によって荒廃した若者の心に、凝縮した言葉の感染力による、奥深いよみがえりの力を与えてくれた。まさに、歌は日本人にとって、集中した魂の声であり、新しい生命の指標であった。殊に『東歌』という、東国の村々の生活の場で、長い歳月と多くの村びとの情念をそそいてはぐくみ育てられた歌には、都の創作歌人の個的な作品と違った、底ごもるように深く根づよい人間の本性と情熱が、濃密でしかも高らかに歌われていて、現代の観念やイデオロギーに傷つき痛めつけられた戦中派の未熟な心の回復に、大きな力を与えられたのである。・・・」
もう一度、宮内庁御用掛の職を退いた岡野氏という新聞記事にもどりましょう。
そこには岡野氏の言葉としてこうありました。
「心の中でまとまってきた、師の折口信夫の学問と文学をまとめる時間がほしい。ただそれだけなんです。20代に起居を共にして教えられた『折口学』を、僕はひたすら継承に集中した。でも次第に、体系だてて書かれてはいない『もののふの歌の系譜』といったことをめぐる先生の考えが見えてきた」