和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

タモの木。

2007-11-23 | Weblog
絵本画家・イラストレータ―として知られる黒井健。
新美南吉のごんぎつねの絵を描いていて有名だそうです。
黒井健のカレンダーも、今頃の時期売れているようです。
私は絵本もカレンダーも持っていないので、以下あてずっぽうな話をします。
ネット検索で「モノラル 黒い記憶 黒井健画集」というのが目にとまりました。
表紙の絵にある木が、タモの木にみえます。それで出身を見てみると、1947年新潟生まれ。新潟大学教育学部中等美術科卒業とあります。すると黒井健の雪の風景は、新潟だと思ってもよさそうですね。
ところで、タモの木です。画家・佐藤哲三に、タモの木のならぶ蒲原平野を描いたものがあります。佐藤哲三が新潟出身で地元の風景を描いておりましたから、黒井健さんが大学の美術科を出ているとすると佐藤哲三の絵を見ている可能性を思い描ける(以上推測です)。それにしても、絵本のあの雪景色が新潟だと思うとまた違った味わいがありますね。そして黒井健の絵の先達として佐藤哲三がいる。そんなことを思い描くのでした。

洲之内徹に「北越に埋もれた鬼才・佐藤哲三」(1969年)という文があります。
そこにこんな箇所。

「数年前、私の画廊へ、三枚の小さな油絵を、ひと抱えにして持ちこんできた人があった。『蕪(かぶ)』と、『桃』と、もう一枚はなんだったか思い出せないが、いずれそういった類いの果物か野菜を描いたものだったろう。作者は新潟のほうの出身で佐藤哲三といい、もう亡くなった画家だということであった。その三枚の絵を、そのとき私は買わなかった。・・・・・せめてあのうちの一枚だけでも買っておけばよかったと、間もなく私は後悔するようになった。そのとき見逃した格別どうということもない『蕪』や『桃』の絵が、後になって、かえっていつまでも目についてならないのである。いったい、あのときのあの絵の何がこうなるのか・・・・」(洲之内徹著「しゃれのめす」世界文化社・p58)

それから、洲之内さんはどうしたか?
ここは、「洲之内徹 絵のある一生」(新潮社 とんぼの本・p28)から引用

「洲之内徹が初めて新潟を訪れたのは1969年(昭和44)9月、56歳。佐藤哲三(1910~54)の遺作展の、作品集めの旅である。」ここから「とんぼの本」では佐藤氏の年齢のことに関連して書いており興味深いのでした。
それはそれとして、その遺作展について
芥川喜好氏の語りを紹介したいのでした。

「35年前の話です。なぜか私はロシア文学を志す学生でした。ある晩秋の夜、新聞の隅の美術記事に吸い寄せられたのです。・・『これはすごい』と、なぜそのとき思ったのか、よく覚えていません。翌日、会場の現代画廊に急ぎました。だれもいません。佐藤哲三さんの絵がひっそりと20点ほど並んでいます。原野。雪景。田園の柿。大きな空間を描いた小さな油絵です。私は脳天をうたれたような気分になりました。こんなことは初めてです。結局、会期終了まで毎日通いました。それは、新潟の大地に生きた佐藤哲三の没後15年を記念して、銀座の画廊主・洲之内徹さんが世に問うた最初の遺作展でした。」(2004年10月6日読売新聞夕刊「芥川記者の展覧会へ行こう」より)

「そんな画廊に私はけっこうマメに通いました。・・・学生のとき佐藤哲三展を毎日見に来たことを言うと、『芥川さんも変わってるなあ』と自分のことを棚にあげてカラカラ笑いました。数えてみたらコレクション90人のうち40人を、以前担当した日曜版連載でとりあげています。現代画廊は私にとっての学校でした。」(同10月13日)


こうして、佐藤哲三の絵の磁場に針がゆれたお二人がいて。私はといえば、芥川さんのその記事を読んで、没後50年佐藤哲三展を見に、一度だけ行ったというわけです。そんなことを今年の柿をみながら思っておりました。
さあ、頑張ってもらって来た残りの柿を食べるぞ。この分じゃ食べ終わるのに20日くらいはかかります(笑)。



コメント
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