和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

五月晴れ。

2011-05-02 | 詩歌
いつのまにか、五月。
今月は、寺田寅彦の地震にまつわる文を読むぞ。

パラパラと、年代順の寺田寅彦俳句をめくる。
寺田寅彦は1878(明治11)年~1935(昭和10)年。
享年58歳でした(太田文平著「寺田寅彦」新潮社の巻末年譜による)。

年譜をたどると、
明治31(1898)年21歳
「 田丸卓郎のすすめで物理学専攻と決意する。特待生となる。漱石を中心に俳句結社。」その明治31年の俳句に

    五月雨(さみだれ)や窓を背にして物思ふ

明治36(1903)年26歳
「 東大物理学科卒業、大学院に進学し実験物理学研究。
 漱石帰朝。震災予防調査会嘱託となり、本多光太郎と共に海水振動調査に従事する。」その明治36年の俳句に

    五月雨や根を洗はるゝ屋根の草


大正12(1923)年は寅彦46歳。

「『藪柑集』、『冬彦集』出版。東洋城と連句研究。9月1日関東大震災に遭遇する。震災被害調査に従事、地震研究所設置の相談にあずかる。気象学開講。土木帝都復興委員会で『旋風について』講演。」


大正14(1925)年48歳
「帝国学士院会員、震災予防評議会評議委員となる。酒井悌にセロを習う。数物学会で『沿面燃焼の伝播について』・・・・」この年の俳句はひとつ。

   葉がくれに秋をうなづく柘榴(ざくろ)哉   


さて、晩年の昭和9(1934)年57歳の句に

   通されて二階眩ゆき若葉哉

それが、亡くなる昭和10年では

   通されて二階眩しや五月晴



(以上俳句は1997年10月発行の岩波書店「寺田寅彦全集」第11巻より)



話はかわります。
阪神・淡路大震災は平成7(1995)年でした。
司馬遼太郎が亡くなったのが平成8年2月。享年73歳。
阪神・淡路大震災(平成7年)では、7月5日~7日に
NHK教育テレビのETV特集で
山折哲雄氏と司馬さんが対談
(NHK出版から「日本とは何かということ」と題して出ております)。

その対談のなかに、こんな箇所がありました。

山折】 ・・・寺田寅彦との比較で申しますと、同じ時代に和辻哲郎が『風土』という作品を書いておりますが、あの中で、日本の風土の特徴をモンスーン型と言って、そこから日本人の性格、国民性のようなものを引き出しています。こんどの阪神・淡路大震災の後、読み返してみましたら、驚くべきことに、『風土』の中で、和辻さんは地震のことに一言半句もふれていないのですね。当時、あの和辻さんは関東大震災を経験していたはずなのですが、それにもかかわらず日本人を論じて、なぜ地震にふれていないのか。これはいったい何だろうと思いました。ところが、その和辻さんが『風土』でとくに強調しているのが、台風なのですね。・・・(p70~71)

山折】  今日までの日本人は、そのような和辻流のものの見方の影響を強く受け、それに慣れてしまったのではないか、――しかし、これは私の独断かもしれません。ともかく、寺田寅彦と和辻哲郎が昭和初年代において展開した日本文化論というか、日本人論というか、日本の風土の性格にかんするそれぞれの洞察を、きちんと位置づけし直す必要があるのではないかなという気がしています。
司馬】 それは面白いなあ。寺田寅彦のほうが、ちょっと魅力的ですね。(p72)

司馬】 ・・・しかし寺田寅彦は、やはり物理学をもっていましたからね。やはり理科系の方が人文を論じたり、社会を論じたりすることの生きいきした感じというのが、寺田さんにはありますね。・・・(p74)


うん。今月は
五月晴れの下
五月雨の下で
寺田寅彦を読むぞ。
コメント
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