どうやら、阪神・淡路大震災あたりから、地震の活動期へと移行したらしい。というのが、尾池和夫氏や鎌田浩毅氏の予測なのだと理解します。
さてっと、活動期のはじまりの阪神・淡路大震災について、以下読み直して気づいたこと。
その頃、司馬遼太郎は風塵抄の連載をしておりました。震災のあとは、114「市民の尊厳」からはじまっておりました。つぎの115「渡辺銀行」には、こんな箇所。
「・・・昭和は・・開幕早々の昭和二年(1927)の三月には、金融恐慌がはじまる。すでに四年前の関東大震災による震災手形が、政府の財政をくるしめていた。また倒産寸前の企業が巷に満ち、さらには台湾銀行までつぶれるといううわさもあった。昭和前期という悪魔に魅せられたような二十年間は、このようにしてはじまった。・・・・
翌々年、アメリカでおこった『大恐慌』が、日本をふくむ世界をおおうのである。いまとちがい、世界の一方に誕生早々のソ連があった。この広大な面積と人口をもつ国だけが社会主義経済をとっていたために、『大恐慌』は及ばなかった。そのことが、世界に左翼思想がひろがる強烈な原因となった。同時に、右翼も生んだ。左翼に反発してのことで、当然のことながら、明治時代には、そんなことばもない。・・・
渡辺銀行の倒産からの昭和史は、異常つづきだった。浜口首相が狙撃され(昭和五年)、陸海軍将校らが首相官邸を襲い犬養毅首相を殺した(昭和七年)。また陸軍将校らが暴発して白昼、政府の要人たちを襲った(昭和十一年)。異常が異常を加算するようにして、ついに大戦争をおこし、国そのものをうしなうのが、昭和前期史である。・・・」
つぎの116「持衰(じさい)」には、こうありました。
「・・・言いわすれたが、古代の【持衰】は、暴風雨がくると、日本武尊伝説のなかの弟橘媛(おとたちばなひめ)がそうしたように、型として海中に身を投ずる。・・・
日本は、英雄の国ではない。・・・
戦前の軍隊でもそうだった。欧米の歩兵は将官が部隊の先頭近くにいるが、日本の歩兵の場合、後方もしくは中どころにいた。源平時代にさかのぼっても、そうである。行政組織もそうだった。たとえば、江戸幕府は武権でありながら、意思決定はつねに遅く、いつも衆議主義で、例外なく突発事態にはおろおろした。・・・・
【持衰】の気分になってみると、そのなまぬるさがよくわかる。・・・
【持衰】という古代人になってみると、その足りなさを狂おしく指摘するよりも、ありのままの政治と行政を【持衰】の祈りによって勇気づけ、はげますほかない。」
この「持衰」は1995年3月6日に掲載されております。
わたしが思い浮かべたのは、1998年9月のビデオテープによる基調講演のことでした。
それが本となり、美智子皇后さまの「橋をかける 子供時代の読書の思い出」。
そこには、こんな箇所があったのでした。
「・・・父のくれた古代の物語の中で、一つ忘れられない話がありました。・・・倭建御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれるこの皇子・・・皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。途中、海が荒れ、皇子の船は航路を閉ざされます。この時、付き添っていた后、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、自分が海に入り海神のいかりを鎮めるので、皇子はその使命を遂行し覆奏してほしい、と云い入水し、皇子の船を目的地に向かわせます。この時、弟橘は、美しい別れの歌を歌います。
さねさし相武(さがむ)の小野(をの)に燃ゆる火の
火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
このしばらく前、健(たける)と弟橘とは、広い枯れ野を通っていた時に、・・草に火を放たれ、燃える火に追われて逃げまどい、九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は、『あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣って下さった君よ』という、危急の折に皇子の示した、優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持ちを歌ったものです。」
こうして歌を紹介したあとに、以下美智子さまは、ご自分の心を語られているのでした。
「・・・・弟橘の言動には、何と表現したらよいか、健と任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ・・・」こうつづき。
さらに、読みすすむと、この箇所がありました。
「・・古代ではない現代に、海を静めるためや、洪水を防ぐために、一人の人間の生命が求められるとは、まず考えられないことです。ですから、人身御供というそのことを、私が恐れるはずはありません。しかし、弟橘の物語には、何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと、それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかも知れないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への、恐れであり、畏怖であったように思います。・・・」
今度東日本大震災のあとに読み直すと『象徴性』という言葉にあらためて気づかされるのでした。
こうして、読み直してみると、阪神・淡路大震災のあとに、その状況に寄添うように、司馬さんの文と美智子さまの文とがつづいたような気がしてくる。
ところで、地震はまだこれから。
鎌田浩毅氏はビートたけしとの対談で、こう指摘するのでした。
鎌田】 日本列島は今、地震の活動期に入ったと言われています。ここ二十年ぐらいは今のような頻度で内陸の地震が起きます。その最後に、東海、東南海、南海地震が起きる。地震学者の間では、これらの地震は2030年代に来ると言われています。つまり2030年から40年の間にほぼ確実に大地震がくる。この三つは連動して同時に起こる可能性があって、その後に富士山が噴火するかもしれない。江戸時代にも同じようなことがあって、三連動した宝永大地震が起きた49日後に富士山が噴火しているんです。・・・地球科学は常にプラスマイナス二十年ぐらいの誤差がありますから、実は今年起きてもおかしくないんです。東海地震、東南海地震、南海地震は百年に一回ぐらい地震が起きるのですが、三回に一回、つまり三百年に一回、三連動の大地震が起きる。・・・三回に一回のときに、富士山もご丁寧に噴火したというのが前回の宝永噴火です。前回は1707年でちょうど三百年ほど前。ですから、この次に起きる大地震が嫌なことに三連動の番なんですよ。(「新潮45」5月号)
さてっと、活動期のはじまりの阪神・淡路大震災について、以下読み直して気づいたこと。
その頃、司馬遼太郎は風塵抄の連載をしておりました。震災のあとは、114「市民の尊厳」からはじまっておりました。つぎの115「渡辺銀行」には、こんな箇所。
「・・・昭和は・・開幕早々の昭和二年(1927)の三月には、金融恐慌がはじまる。すでに四年前の関東大震災による震災手形が、政府の財政をくるしめていた。また倒産寸前の企業が巷に満ち、さらには台湾銀行までつぶれるといううわさもあった。昭和前期という悪魔に魅せられたような二十年間は、このようにしてはじまった。・・・・
翌々年、アメリカでおこった『大恐慌』が、日本をふくむ世界をおおうのである。いまとちがい、世界の一方に誕生早々のソ連があった。この広大な面積と人口をもつ国だけが社会主義経済をとっていたために、『大恐慌』は及ばなかった。そのことが、世界に左翼思想がひろがる強烈な原因となった。同時に、右翼も生んだ。左翼に反発してのことで、当然のことながら、明治時代には、そんなことばもない。・・・
渡辺銀行の倒産からの昭和史は、異常つづきだった。浜口首相が狙撃され(昭和五年)、陸海軍将校らが首相官邸を襲い犬養毅首相を殺した(昭和七年)。また陸軍将校らが暴発して白昼、政府の要人たちを襲った(昭和十一年)。異常が異常を加算するようにして、ついに大戦争をおこし、国そのものをうしなうのが、昭和前期史である。・・・」
つぎの116「持衰(じさい)」には、こうありました。
「・・・言いわすれたが、古代の【持衰】は、暴風雨がくると、日本武尊伝説のなかの弟橘媛(おとたちばなひめ)がそうしたように、型として海中に身を投ずる。・・・
日本は、英雄の国ではない。・・・
戦前の軍隊でもそうだった。欧米の歩兵は将官が部隊の先頭近くにいるが、日本の歩兵の場合、後方もしくは中どころにいた。源平時代にさかのぼっても、そうである。行政組織もそうだった。たとえば、江戸幕府は武権でありながら、意思決定はつねに遅く、いつも衆議主義で、例外なく突発事態にはおろおろした。・・・・
【持衰】の気分になってみると、そのなまぬるさがよくわかる。・・・
【持衰】という古代人になってみると、その足りなさを狂おしく指摘するよりも、ありのままの政治と行政を【持衰】の祈りによって勇気づけ、はげますほかない。」
この「持衰」は1995年3月6日に掲載されております。
わたしが思い浮かべたのは、1998年9月のビデオテープによる基調講演のことでした。
それが本となり、美智子皇后さまの「橋をかける 子供時代の読書の思い出」。
そこには、こんな箇所があったのでした。
「・・・父のくれた古代の物語の中で、一つ忘れられない話がありました。・・・倭建御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれるこの皇子・・・皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。途中、海が荒れ、皇子の船は航路を閉ざされます。この時、付き添っていた后、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、自分が海に入り海神のいかりを鎮めるので、皇子はその使命を遂行し覆奏してほしい、と云い入水し、皇子の船を目的地に向かわせます。この時、弟橘は、美しい別れの歌を歌います。
さねさし相武(さがむ)の小野(をの)に燃ゆる火の
火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
このしばらく前、健(たける)と弟橘とは、広い枯れ野を通っていた時に、・・草に火を放たれ、燃える火に追われて逃げまどい、九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は、『あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣って下さった君よ』という、危急の折に皇子の示した、優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持ちを歌ったものです。」
こうして歌を紹介したあとに、以下美智子さまは、ご自分の心を語られているのでした。
「・・・・弟橘の言動には、何と表現したらよいか、健と任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ・・・」こうつづき。
さらに、読みすすむと、この箇所がありました。
「・・古代ではない現代に、海を静めるためや、洪水を防ぐために、一人の人間の生命が求められるとは、まず考えられないことです。ですから、人身御供というそのことを、私が恐れるはずはありません。しかし、弟橘の物語には、何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと、それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかも知れないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への、恐れであり、畏怖であったように思います。・・・」
今度東日本大震災のあとに読み直すと『象徴性』という言葉にあらためて気づかされるのでした。
こうして、読み直してみると、阪神・淡路大震災のあとに、その状況に寄添うように、司馬さんの文と美智子さまの文とがつづいたような気がしてくる。
ところで、地震はまだこれから。
鎌田浩毅氏はビートたけしとの対談で、こう指摘するのでした。
鎌田】 日本列島は今、地震の活動期に入ったと言われています。ここ二十年ぐらいは今のような頻度で内陸の地震が起きます。その最後に、東海、東南海、南海地震が起きる。地震学者の間では、これらの地震は2030年代に来ると言われています。つまり2030年から40年の間にほぼ確実に大地震がくる。この三つは連動して同時に起こる可能性があって、その後に富士山が噴火するかもしれない。江戸時代にも同じようなことがあって、三連動した宝永大地震が起きた49日後に富士山が噴火しているんです。・・・地球科学は常にプラスマイナス二十年ぐらいの誤差がありますから、実は今年起きてもおかしくないんです。東海地震、東南海地震、南海地震は百年に一回ぐらい地震が起きるのですが、三回に一回、つまり三百年に一回、三連動の大地震が起きる。・・・三回に一回のときに、富士山もご丁寧に噴火したというのが前回の宝永噴火です。前回は1707年でちょうど三百年ほど前。ですから、この次に起きる大地震が嫌なことに三連動の番なんですよ。(「新潮45」5月号)