東日本大震災のあとに、
司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」を読み直すと、
あらためて目をひく箇所に出くわします。
「20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。・・おそらく、自然に対していばりかえっていた時代は、21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。」
「・・自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。そうなれば、21世紀の人間は、よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬し合うようになるにちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。」
ちなみに、この文は1988年に書かれておりました。
わたしは、1995年の阪神・淡路大震災のあとには、この文面をすっかり忘れておりました。今回、東日本大震災のあとに読み返して、はじめてこの箇所にであった感触で読みました。つまりわたしも「自然に対していばりかえっていた時代」の申し子だったわけです。なにか、変なことを司馬さんは言っているなあ、というぐらいにしか思っておりませんでした。
以下は、話題をかえて、寺田寅彦の「日本人の自然観」について
そこに「日本人の精神生活」という箇所があります。
「単調で荒涼な砂漠の国には一神教が生まれると言った人があった。日本のように多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のことであろう。山も川も木も一つ一つが神であり人でもあるのである。それをあがめそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は至るところの集落に鎮守の社を建てさせた。これも日本の特色である。
仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義の含有するいろいろの因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。鴨長明の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っているからである。
日本において科学の発達がおくれた理由はいろいろあるであろうが、一つにはやはり日本人の以上述べてきたったような自然観の特異性に連関しているのではないかと思われる。・・・全く予測し難い地震台風に鞭打たれつづけている日本人はそれら現象の原因を探求するよりも、それらの災害を軽減し回避する具体的方策の研究にその知恵を傾けたもののように思われる。おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに無常であったかもしれないのである。・・・・
ともかくも日本で分析科学が発達しなかったのはやはり環境の支配によるものであって、日本人の頭脳の低級なためではないということはたしかであろうと思う。その証拠には日本古来の知恵を無視した科学が大恥をかいた例は数えれば数え切れないほどあるのである。」
さてっと、
私は、東日本大震災がおこって新聞をめくっていたのですが、
新聞の歌壇俳壇を読んで、たとえていえば腰が定まったような気がしておりました。それが何であったのか、寺田寅彦の文を読んでいると氷解されるような気がしてくるのでした。
では、その箇所。
「こういう点で何よりも最も代表的なものは短歌と俳句であろう。この二つの短詩形の中に盛られたものは、多くの場合において、日本の自然と日本人との包含によって生じた全機的有機体日本が最も雄弁にそれ自身を物語る声のレコードとして見ることのできるものである。これらの詩の中に現われた自然は科学者の取り扱うような、人間から切り離した自然とは全く趣を異にしたものである。また単に、普通にいわゆる背景として他所から借りて来て添加したものでもない。人は自然に同化し、自然は人間に消化され、人と自然が完全な全機的な有機体として行き動くときにおのずから発する楽音のようなものであると言ってもはなはだしい誇張ではあるまいと思われるのである。
西洋人の詩にも漢詩にも、そうした傾向のものがいくらかはあるかもしれないが、浅学な私の知る範囲内では、外国の詩には自我と外界との対立がいつもあまりに明白に立っており、そこから理屈(フィロソフィー)が生まれたり教訓(モラール)が組み立てられたりする。万葉の短歌や蕉門の俳句におけるがごとく人と自然との渾然として融合したものを見いだすことは私にははなはだ困難なように思われるのである。」
どうでしょう。寺田寅彦の「日本人の自然観」は読む価値があります。
それを読み終わってから、司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」にある
「人間は、自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。・・・」を読み直すと、より分かりやすくなるのでした。
司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」を読み直すと、
あらためて目をひく箇所に出くわします。
「20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。・・おそらく、自然に対していばりかえっていた時代は、21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。」
「・・自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。そうなれば、21世紀の人間は、よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬し合うようになるにちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。」
ちなみに、この文は1988年に書かれておりました。
わたしは、1995年の阪神・淡路大震災のあとには、この文面をすっかり忘れておりました。今回、東日本大震災のあとに読み返して、はじめてこの箇所にであった感触で読みました。つまりわたしも「自然に対していばりかえっていた時代」の申し子だったわけです。なにか、変なことを司馬さんは言っているなあ、というぐらいにしか思っておりませんでした。
以下は、話題をかえて、寺田寅彦の「日本人の自然観」について
そこに「日本人の精神生活」という箇所があります。
「単調で荒涼な砂漠の国には一神教が生まれると言った人があった。日本のように多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のことであろう。山も川も木も一つ一つが神であり人でもあるのである。それをあがめそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は至るところの集落に鎮守の社を建てさせた。これも日本の特色である。
仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義の含有するいろいろの因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。鴨長明の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っているからである。
日本において科学の発達がおくれた理由はいろいろあるであろうが、一つにはやはり日本人の以上述べてきたったような自然観の特異性に連関しているのではないかと思われる。・・・全く予測し難い地震台風に鞭打たれつづけている日本人はそれら現象の原因を探求するよりも、それらの災害を軽減し回避する具体的方策の研究にその知恵を傾けたもののように思われる。おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに無常であったかもしれないのである。・・・・
ともかくも日本で分析科学が発達しなかったのはやはり環境の支配によるものであって、日本人の頭脳の低級なためではないということはたしかであろうと思う。その証拠には日本古来の知恵を無視した科学が大恥をかいた例は数えれば数え切れないほどあるのである。」
さてっと、
私は、東日本大震災がおこって新聞をめくっていたのですが、
新聞の歌壇俳壇を読んで、たとえていえば腰が定まったような気がしておりました。それが何であったのか、寺田寅彦の文を読んでいると氷解されるような気がしてくるのでした。
では、その箇所。
「こういう点で何よりも最も代表的なものは短歌と俳句であろう。この二つの短詩形の中に盛られたものは、多くの場合において、日本の自然と日本人との包含によって生じた全機的有機体日本が最も雄弁にそれ自身を物語る声のレコードとして見ることのできるものである。これらの詩の中に現われた自然は科学者の取り扱うような、人間から切り離した自然とは全く趣を異にしたものである。また単に、普通にいわゆる背景として他所から借りて来て添加したものでもない。人は自然に同化し、自然は人間に消化され、人と自然が完全な全機的な有機体として行き動くときにおのずから発する楽音のようなものであると言ってもはなはだしい誇張ではあるまいと思われるのである。
西洋人の詩にも漢詩にも、そうした傾向のものがいくらかはあるかもしれないが、浅学な私の知る範囲内では、外国の詩には自我と外界との対立がいつもあまりに明白に立っており、そこから理屈(フィロソフィー)が生まれたり教訓(モラール)が組み立てられたりする。万葉の短歌や蕉門の俳句におけるがごとく人と自然との渾然として融合したものを見いだすことは私にははなはだ困難なように思われるのである。」
どうでしょう。寺田寅彦の「日本人の自然観」は読む価値があります。
それを読み終わってから、司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」にある
「人間は、自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。・・・」を読み直すと、より分かりやすくなるのでした。